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『学習する社会』#16 2.知ること 2.4 知の在所 (研究的なシリーズエッセイ)

2.知ること

「知ること」について、その原点を暗黙知やアフォーダンスの考え方に求め(#7~9)、「知っていること」と「知らないこと」を媒介する道具を通して「知る」ことを考え(#10~12)、能動的に「知る」上で重要となる「すること(行為)」から「知ること」を考えてきた(#13~15)。どのように知るのかについて考えてきたわけであるが、それでは、環境との相互作用を通じて「知ったこと」はどこに、どのようにあるのだろう。知の在所について考えてみたい。

2.4 知の在所

#15で述べたように、「学習する社会」の視角でとらえる行為は意図されたものであり、行為する際に我々は意図を持っている。人は自分の外部からの刺激を自分の内部にある意識に変換し、その意識に生じた意図に引き起こされて行為する。もちろん、必ずしも刺激が先行する必要はなく、意識の中の意図に応じた行為によって外部からの刺激が引き起こされる場合もあり、刺激と行為は意識を媒介として相互作用する

観察の可能性に重点を置く心理学の行動主義はこの媒介的な意識を捨象する。複数の個の意識に共通性があれば、その共通性に起因する行為は刺激⇒行為でも説明はできるだろう。しかし、経験によって形成される全体としての意識は実在する個に対して唯一独特であり、個に特有な意識に起因する行為は刺激⇒行為では説明できない。刺激と行為を媒介する意識に注目する必要がある。認知心理学はこの意識の理論化を重視するが、刺激と行為を媒介する個に独特な意識を私はボールディング(K.E.Boulding、1956)がいうところのイメージ(image)と考える。

内的世界としてのイメージ

暗黙知の対象、他者の顔や目・鼻・口等々、あるいはつづりや電気ショックはそれらについて知っている人の外的世界に存在している。何か一つのまとまった存在として感知されるものにせよ、何らかの一連の因果関係として感知されるものにせよ、我々は行為を通じて外的世界について知る。そのときその知った事物、知の対象が在るところが環境と呼ばれる。それでは、知はどこに在るのだろうか。個人の知の存在する場所は脳や心など様々な形で言及されるが、知の機能を考えれば刺激と行為の間にある意識こそが知の在所と考えられよう。単に意識と言うよりは、多様な意識の関係性で形成される意識界のようなものが「個人の知の在所」であり、意識界は環境と区別する意味で【内的世界】と呼べるが、今後はそれをイメージとして言及することにしよう。

心理学におけるイメージ研究の歴史は古い。ギリシャ思想においてもイメージは基本的な心的因子である(M.Denis、1979)。哲学から心理学へと発展した19世紀末から20世紀初頭にかけてもイメージは重要な役割を持っていた。その後、心理学における行動主義の台頭がイメージ研究を衰退させたが、認知心理学の拡大と共に再びイメージ研究が盛んになっている。

心理学におけるイメージ

心理学におけるイメージの一般的な定義の一つにリチャードソン(A. Richardson)のものがある。イメージは①準感覚的または準知覚的経験であり、②我々はそれに自己意識的に気づいており、③それに対応した本物の刺激条件(感覚ないし知覚を産み出すような刺激条件)が実際に存在しないのに、あたかも存在しているもののように経験し、④その刺激条件に対応した感覚ないし知覚の場合とは違った結果をもたらす (水島,1983)。いわゆる心象の定義である。

安西(1985)は問題解決に利用されるイメージに限定して、以下のように述べている。

生きて働く記憶と目標達成に向けてより意図的に働く思考とが出会い、一つのかたちをなして心に浮かんだものにほかならない。

安西(1985)、p.83。

また、藤岡は最も広いイメージの規定をして、次のように述べている。

人間はイメージを蓄えた世界そのものであり、いわばイメージ・タンクである。しかもこのイメージ界は静的なものではなく、常に活動している。

藤岡(1974)、p.65。

私たち一人ひとりが心の内容として意識しているものは、すべてイメージである。

藤岡(1974)、p.68。

さらに、水島はリチャードソンのような狭義の見方に対して広義のイメージが人間学的な広い視野を与えるとして、次のように述べている。

イメージは体験像でありながら、同時に体験を整理するシェマ[図式]としての機能を持つが、このシェマとしての側面においては、われわれはイメージをもっと広義に規定し、動物にもある認知シェマを含め、さらには植物や微生物の適応シェマにまで拡大する見解をとることができる。

水島(1989)、p.239。

「学習する社会」の視角において「人の行為」を支えている知を考える場合、水島が指摘するように、狭義の心象としてのイメージ概念ではなく、広義のイメージ概念を採用する必要がある。

イメージと環境

広義のイメージと環境との関係についてボールディング(1956)は、以下の五つの次元でイメージを考えている。
 ①空間・時間・関係・個人・価値・感情イメージ、
 ②意識的・無意識的・潜在意識的イメージ、
 ③確実・不確実イメージ、
 ④現実・架空イメージ、
 ⑤公的・私的イメージ。

ミッチェル/レディカー/ビーチ(T. R. Mitchell, K. J. Rediker & L. R. Beach、1986)は、以下の四つを提示している。
 ①自己イメージ、
 ②軌道イメージ、
 ③投影イメージ、
 ④行為イメージ。

水島(1983)は、
 ①知的・体験的・感情的イメージ、
 ②準対外的・体内的イメージ、
 ③能動的・受動的イメージ、
の三次元を主要次元としてあげ、A断片的最表層、B画像層、C情報処理層(意識層)、D深層(無意識層等)、E最深層という層構造を提示している。

このような構造的側面も見ることのできるイメージは環境と連動しない独自性も持っているが、アフォーダンスの議論で明らかなように、基本的には環境との写像性を持つ一つの世界である。行為はイメージに依存していると同時にイメージは行為を通じて感知される環境に依存している。藤岡は我々一人ひとりの独自のイメージの世界【イメージ集合】とそれぞれの環境【外界集合】の関係を、外界集合(F)-知覚集合(G)-イメージ集合(H)という精神作用で表している。

FもHもその総体を構成するすべての要素を枚挙しつくすことはできない。要素の種類も雑多であって、不変な分類基準を立てることもできない。

藤岡(1974)、p.110。

藤岡が指摘しているように、広大な環境もイメージの世界も語りつくすことはできない。ボールディングやミッチェル等、水島のようにイメージの世界を構造的に理解しようとする試みは重要であるが、同時にイメージの世界【内的世界】はそれとして一つの世界であることを認めることも重要である。

「知っていること」とイメージ

暗黙知の在るところとしてのイメージの世界は様々な断片的イメージが関係づけられた包括的世界であり、その構造を想定することは環境と人との関係、環境と行為との関係を考える上で欠くことはできない。しかし、我々が眼前に見ている外的世界と同様に、簡単に構造的理解ができない包括的な世界であることも忘れてはならない。行為を通じて進行する学びは、この包括的なイメージの世界を変化させる。別言すれば、イメージの世界を変化させることが学びであるとも言える。

ただし、我々は包括的なイメージの世界すべてを意識できるわけではない。我々が意識できるのは、例えばナイサーが知覚循環(改めて紹介します)と呼ぶ循環部分などに限られる。学びに限らず、我々が意識できるのは包括的なイメージ世界の一部である。シリーズエッセイ「学習する社会」では、我々が思い、考え、感じていると意識できるイメージ世界を活性化されたイメージあるいは単にイメージと呼び、包括的なイメージの世界全体はイメージ界と呼ぶことにしておこう。

今回の文献リスト(掲出順)

  1. Boulding, Kenneth E. (1956) The Image: Knowledge in Life and Society, University of Michigan Press. (大川信明訳 (1962) 『ザ・イメージ 生活の知恵・社会の知恵』誠信書房)

  2. Denis, Michel (1979) Les Images Mentales, Presses Universitaires de France. (寺内礼監訳 (1989) 『イメージの心理学:心証論のすべて』勁草書房)

  3. 水島恵一 (1983)「体験的認知としてのイメージの理論」水島恵一/上杉喬編『イメージの基礎心理学』誠信書房。

  4. 安西祐一郎 (1985)『問題解決の心理学 人間の時代への発想』中央公論社。

  5. 藤岡喜愛 (1974)『イメージと人間 精神人類学の視野』日本放送出版協会。

  6. Mitchell, T. R., K. J. Rediker and L. R. Beach (1986) “Image Theory and Organizational Decision Making”, H. P. Sims, Jr. and D. A. Gioia (eds.), The Thinking Organization, Jossey-Bass.


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