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中山道「今須宿」の今。「車返しの坂」と付けられた地名の背景は拍子抜け。

江戸と京都を結んだ五街道の一つ、中山道には69の宿場があり、岐阜県には17の宿場があります。岐阜県の東の端にある「馬籠宿」が有名ですが、今回は西の端にある「今須宿」を訪ねました。馬籠宿までが木曽路で、それより西の16宿が美濃16宿と呼ばれます。今須宿は天下分け目の戦いで有名な関ケ原の西に位置しています。観光地というわけではありませんが、歴史を感じる史跡もあるほのぼのとした田舎の街でした。

歴史ある宿場

今須宿の道標
車返しの坂に咲く桜

美濃16宿の中でも三番目の大きさだったという今須宿は、近江との国境でもあり曹洞宗の妙應寺の門前町として古くから栄えていました。今須宿の西の端(近江側の柏原宿との境界)には、寝物語の里の史跡があります。平治の乱(259年)の後、源義朝を追ってきた常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられているところです。
その近くには「車返しの坂」があります。山間に位置していますから大切なものを運ぶに運べなかったとか、谷間の要所に位置していますから戦いの際に敵を追い返したとか、というようないわれでもあるのかと思い写真を撮っていました。帰宅して調べてみると、南北朝の昔、不破関屋が荒れ果てて、板庇(いたびさし)から漏れる月の光が面白いと聞いた粋狂人(公家の二条良基)が、わざわざ都から牛車にのってやってきたけれど、この坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったそうです。なんとも拍子抜けでした。

ひなびた街並み

江戸時代の名残を残す常夜灯
今は生活道路
謎の壁画(シャッター画)

街並みには宿場らしいものはほとんどありません。常夜灯がポツンと史跡っぽくたっているけれど、それも指摘されなければ気がつかないかもしれません。そこには宿場とは違う日常があり、街道は生活道路となっていました。
中学生が卒業紀念に制作したらしい、シャッターに描かれた絵が最も今須宿らしいものでした。

交通の要

旧中山道、国道21号線、東海道本線
今須宿の一里塚跡

今須宿のある関ケ原周辺は今も交通の要です。旧中山道の隣に伸びる国道21号線は多くの車が行き交っており、その横にはJR東海の東海道本線が走っています。それら三つが最も接近しているところには一里塚跡があり、大きな木が一本、ひっそりと立っていました。

今回、今須宿を訪ねて江戸時代の面影がうっすらと残る宿場町を被写体として選ぶのも面白いかなと思いました。きっと宿場町を撮影している先輩は多くいるでしょうけれど、私なりに岐阜県の中山道17宿を記録に残すことを当面の目標にしようと思います。

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