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Violinと私、日立市に生まれ、育って

全く記憶がないのですが、私は3歳のころからバイオリン教室に通っていたようです。日立という街は日立製作所の企業城下町、私が生まれて育ったころは高度成長の時期で、全国から人が集まり、自由な雰囲気がありました。そして企業も福祉に十分なお金をかけることができる時代でしたので街は輝いていました。

日立製作所が援助した日立交響楽団(通称H響)という市民の交響楽団がありました。これは日立製作所の誇りでした。私はそこに4年生から入団させられ、まったく弾けないまま、ステージに乗ることが何年か続いて情けない時もありました。もともと私の通っていたバイオリン教室もH響でバイオリンを弾く人を増やす、という目的でどなかたが、才能教育研究会(鈴木メソッド)に依頼して教師を派遣してもらった、と聞いたことがあります。

そのうちだんだん弾けるようになってくると楽しくなってきました。鈴木メソッドは耳で覚えるので、楽譜が読めません。。なので、楽団の方々に譜読みからご指導いただき、大変お世話をおかけしました。副指揮のM田さん(トランペット、早稲田大学)、N井さん(半井さんは北海道出身で父の仕事仲間)がなどたくさんの方が気にかけてくださいました。H響の皆様は紳士淑女でとても優しく、地元の吹奏楽をしている中高生たちに優しく指導してくださっていました。私もだいぶかわいがってもらいました。小学5年生の時に母を病気で失くし、家事もしないといけないながら、H響には参加したいと思っていました。父も仕事が忙しいながら、夕食の支度、迎えなどよく支えてくれたと思います。H響はみんなの誇りだったのです。

ベートーベンのピアノ協奏曲5番「皇帝」ブラームスの交響曲1番ドボルザークの交響曲8番ベートーベンの9番交響曲「第九」、などいろいろと印象深い曲を弾かせてもらって、オーケストラが楽しくてしょうがありませんでした。半年かけて練習した曲は今でも指が動きます。H響には東京大学、早稲田大学、京都大学、北海道大学、東京工業大学などのオケ出身の方がたくさんいて、(日立製作所はオケがあるから、就職したという話も聞いたことがあります。)みなさん、仕事が忙しいながらも練習に来て、年に2回の演奏会をしていました。仕事がらみで南アフリカのオケのコンマスを招いてベートーベンのバイオリン協奏曲をしたこともありましたし、宮沢明子さんがいらして皇帝を弾いてくださいました。当時は日立製作所はお金持ちだったんだな、と思います。小平会館(日立製作所の創業50年を記念して作られたホール)で練習するのですが、それは街を見下ろす丘の上にあり、そこに歩いていくのには階段を何段も登らないといけないといけませんでした。そこから見下ろす日立の工場と海の眺めはすばらしいものでした。小平会館は赤い絨毯が敷いてあり、窓にはレースのカーテン、街の映画館よりも何倍もきれいで、すばらしいホールでした。バーンスタインもここで公演したことがある、と聞いたことがあります。当時は主な公演は県庁所在地の水戸を通り越して、日立に来てました。少し前までは、日立製作所の入社式はここでして、新入社員は日立の街で1ヶ月研修をしたのち、全国に散らばっていく、という習わしでした。創業者の志を知る、ということだったのでしょう。そんなことは流行らなくなりました。そして小平会館も老朽化で使用できなくなりました。

将来は私も大学に行ってオケに入るぞ、と思ったものです。何を隠そう大学進学のモチはオケでした。北大や京大に入りたいと思ったのもオケが理由でした。(こんなモチは親には言えません..)しかし北大や京大は遠い、東大は学力的に論外、と、相応だと思われた東北大学を目的もないまま受験して、落ちて東京女子大に入ることになって上京しました。東大のオケに入れてもらおうと思ったら、東大オケは東大以外は入れないことがわかり、意気消沈。。東京女子大には弦楽アンサンブルしかありませんでした。その名もカレッジストリングス。しかし見学したときに春の演奏会のメイン、ドボルザークの弦楽セレナーデが素晴らしく、入ってみるか、と決意して入ったものの、上手だった4年生は大量に引退。残った少人数、初心者がほとんどのアンサンブルになっていました。クラブ運営の苦労はいろいろありましたが、それでもトレーナーと指揮者は桐朋学園の音楽部の中でもエリートの皆様と決まっていて、最高のトレーナーたちでした。ここで初めて私がやってきたことの基礎のなさを思い知らされ、まじめにレッスンを受け、基礎練をし、よりきれいに弾けるようになっていったのでした。

電通大、法政大、東工大のオケから助っ人のお呼びがかかり、H響で体験した以外のドビュッシーショスタコーヴィッチなど、いろんな曲を弾かせてもらいました。またJMJ (Jeunesses Musicales du Japon)のオーディションを受けていろんな大学の方との繋がりができました。JMJではプロコフィエフの交響曲5番ムソルグスキーの「展覧会の絵」マーラーの交響曲2番を弾きました。バルトークのオケコンは弾きたかったですが、JMJの存在を知らずオーディションを受けずご縁がありませんでした。JMJの演奏会はマーラーの交響曲9番「マラ9」を初めて聴いて感動しました指揮は井上道義さん。のちにマラ9をやりたいメンバーでマラ9を山田一雄さんの指揮で演奏会を企画があり参加しました。そのあとJMJ出身の方々を中心としたオケシンフォニカというが結成されて、そのお仲間にも入れていたただきました。

大学では小さい弦楽アンサンブルでしたが、だからこそ、室内楽でも耐えうるようなきれいな音で弾くことができるようになったのでした。モーツアルトの交響曲29番ワーグナーのジークフリート牧歌モーツアルトのバイオリン協奏曲3番バッハの管弦楽組曲2番チャイコフスキードボルザークの弦楽セレナーデ。音楽三昧の宝物のような時間を過ごしました。

夫との出会いもオケを通じてでした。彼は助っ人にきてくれた方の友達でファゴットでは名手でした。JMJのマラ9にものってました。(オーディションではパッセージが難しいので歌った、という逸話の持ち主。)東工大の助っ人の時に「お噂はかねがね、、」状態で偶然に出会い、それからなんとなくおつきあいが始まりました。音楽で出会った私たち、、でもなぜかのちに二人で山の方向へ行ってしまうのですが。

話をH響に戻すと、大学生の時、ベルリオーズの幻想交響曲ブラームスの2番のお手伝いに行ったことがあります。大学生になってオケを続けていることを事務局をしていたN瀬さん(打楽器、北大かな?とてもきめ細やかな事務仕事をしてらっしゃいました)はとても喜んでくださいました。4年生の時、ちょうど就職活動のころ、中国演奏旅行があるから行かないか、と誘われました。固辞していると「就職活動なんかより、よほど価値のあることだよ」と言われました。まあ、親のコネで日立製作所の本社で秘書業務のような仕事に就くことはできたはずで、N瀬さんも「そんなに就職活動しないで日立に入ればいいでしょ」ぐらいに思っていたのかもしれません。でも私は日立の縛りから抜け出したい気持ちがありました。四大卒の女性の就職はかなり難しい、と言われていましたが、父は私にやるだけやってみろ、という気持ちで見守ってくれていました。ありがたいです。しかしどちらが良かったのか。。中国には行っておいても良かったかもしれません。この優しい人たちの渦の中にいるものも悪くはなかったかもしれません。

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