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これまでのサッカー人生(主にここ最近の2年間のお話)



はじめまして!まず始めに軽く自己紹介をしようと思います。

名前は呉世心(お せしん)と申します。

1997年12月12日生まれ、現在23歳

兵庫県神戸市出身、神戸市在住の在日韓国人です。

サッカーをしていて身長は181cm、利き足は左足でサッカーでのポジションは主に攻撃的なポジションをしています。

この度色々思うことがあってnoteを始めさせてもらうことにしたのですが、僕という人間を語るにあたってサッカーは絶対に切り離せない要素なので初投稿は僕の今までのサッカー人生(その中でも主に去年と今年の話)を話したいと思います
長文で拙い文章になると思いますが読んでいただけたら幸いです。


1.サッカーを始めたきっかけ


物心ついた頃にはボールを蹴っていたので自分では覚えていないのですが、親に聞いてみると母がサッカースクールに通わせたことがきっかけらしいです。父がサッカー選手だったのでつい最近までお父さんが僕がサッカーを始めたきっかけだとばかり思っていたので僕自身もびっくりしました。笑

当時はサッカー自体全然好きじゃなくて、学校の友達と何も考えずに遊ぶ方が楽しかったので、スクールに行きたくないと毎回駄々をこねてたのを今でも覚えています。

公園でボールを蹴っている写真



小学生までは地元のクラブチームと学校での部活での両方でサッカーをしていました。サッカー三昧の毎日で、実力もチームの中では上手な方ではありましたが、サッカーに対する情熱みたいな物は特になかったです。チームのコーチからも、僕がなにを考えてるかわからないことから『不思議ちゃん』と呼ばれてました

2.中学時代

写真中央の19番が僕です。地元の小さな大会に出た時の写真 この試合をたまたま観戦していた県トレ(※1)のコーチに試合後に県トレの練習にこないかと声をかけられたがこの試合で膝の怪我が悪化してしまい断念。数ある挫折のうちの一つです。



中学1年の頃は中3の先輩がみんな上手くて試合に出るどころか練習でも学校の周りを走って、それがおわったらラダーや基礎練といったことをグラウンドの隅で行い、練習の最後に行われる紅白戦のボール拾いをして練習が終わるなんてことがざらにありました。

当時は辛いし、面白くないと思うこともありましたが、今思えばこの経験のおかげで悔しい!サッカーをもっとしたい!といった感情が湧き出るようになったので僕にとっては必要な経験だったと思います。そして実際に中学から僕はサッカーにどっぷりハマっていきます。

(※1)兵庫県トレーニングセンターの略。わかりやすく言うと県の選抜チームみたいなものです。

3.高校時代

高校3年時、引退試合後の集合写真



高校3年間の思い出を一言で言うとしたら『怪我』です。

怪我や病気ばかり繰り返して高校3年間で1年半程しかサッカーしてなかったと思います。

個人の経歴としては市トレ(※2)に高1の冬と高2の夏に選ばれて大会に出たくらいです。

チームとしては、総体や選手権では3年間での最高記録が県ベスト16でした。リーグも神戸市1部リーグだったので結果だけで言ってしまえば強くなかったです。でも仲も良かったし、情熱を持ったやつが多くてとても楽しかったです。

(※2)神戸市トレーニングセンターの略。神戸市の選抜チームみたいなもの。


4.大学時代


大学最後の試合となったKSLカップの3位決定戦の試合前の集合写真です。



大学4年間はサッカーだけをみると1番辛かった4年間でした。関西の強豪大学である阪南大学にAO入試で入学して本格的にプロになることを意識し始めましたが、入学前の合宿や遠征で自分と周りとのレベルの違いを目の当たりにして、そこからの大学4年間はサッカーを嫌いになることはなかったが、楽しくもなければ辛いといったことが9割でした。そして大学でも怪我に悩まされました。

ただ、人としてもサッカー選手としてもこの4年間でとても成長できたと今でも思っています。監督やコーチ陣、そしてチームメイトに恵まれました。

真面目だけが取り柄で上手くなかった僕のことをコーチ陣はとても気にかけてくれて、僕を人としてもサッカー選手としても成長させて成功させるために僕をBチームのキャプテンに任命したり、僕をいろんなポジションで使ってみたりと色んな経験を積ませていただきました。その分期待に応えられなかったことが不甲斐ないです。

最終学年時には阪南大クラブという当時関西社会人リーグ1部のチームに所属して、KSLカップというシーズン終盤に行われる関西の大会で4位でした。




5.韓国時代(大卒1年目)


練習参加初日。背中にGPSを付けられて初日からめちゃくちゃ走りました

練習参加して初めての紅白戦でゴールした時の写真です。




卒論を提出して、大学の卒業式を待たずに2月に韓国に渡航することになります。
元々はドイツか、コーチからの紹介でスペインかといった2カ国中のどちらかにいくつもりで準備を進めていましたが、コロナの問題に悩まされ、それであれば韓国ならコロナ禍だとしても国の対策が徹底しているからサッカーが全くできないといったことにはならないだろうといったことを代理人から聞き、最終的にその方に紹介してもらった韓国のチームのトライアウトに参加しました。
そして合格して韓国で本格的にサッカーをすることになります。


僕が韓国にいた時に在籍していたチームはTNTFitogether FCといったチームでとても特殊なチームでした
なにが特殊なのかというと、まずチーム自体が国のリーグに登録していないです
これによって、通常なら移籍期間というものが夏と冬にあってそのタイミングでしか移籍できないのが、リーグに所属もしていなければ選手登録もしていないのでチャンスがきてそれを掴むことさえできれば年中どのタイミングでも移籍をすることができます

なので韓国中から、僕の様にプロ選手を目指してくる選手や、海外のチームでプロ選手としてプレーしているがコロナの為一時帰国を余儀なくされてコンディション維持をできる場を探し求めてくる選手、
元々プロチームに所属していたが兵役でサッカーから離れていて約1年半の兵役生活から戻ってきてまたサッカー選手としてやろうとチームにくる選手、
またはチームから契約解除を告げられ、クビにされたがそれでもまた返り咲いてやるといった意思を持った元プロの選手などがプロチームに挑戦するまでのコンディション維持、向上を目的にやってきます。
そしてテストを受けて合格した選手がチームに入団できるといったシステムでした。


そしてチームの代表取締役が韓国でプロサッカー選手だった方で、その方のお陰でリーグ戦がなかったとしても毎週の様に韓国のプロ、セミプロのチームと試合をすることができました。言ってしまえば選手のことを優先的に考えているとてもありがたいチームです

チームのレベル自体も高く、チームメイトには韓国のプロリーグで試合に出ていた選手はもちろんその他にもJリーグにいた選手やクロアチア1部のチームにいた選手、チリ1部にいた選手、ドイツ2部にいた選手、タイ1部で年収1000万以上貰っていた選手や更には代表歴のある選手までいました。

そういった選手が沢山いた中で幸運にも試合のメンバーに選んでいただき、試合に出させていただくことが多かったので大学時代にほとんどなくなっていた選手としての自信も自ずと回復していきました。そうすると、周りが上手ければ、自分も自信を持っているわけなので勿論プレーも上手くいくことが増えます。

そして夏には僕にもチャンスがやってきました

僕の今までの経歴や韓国にきてからの成績、プレー動画などといった資料を片手に僕の代理人が色んなチームにコンタクトを取ってみてくれたところ、プロチームから僕をみてみたいから練習試合に来てくれと連絡が返ってきたのです

大学で4年間ダメダメだった僕でも大卒1年目でこんなチャンスがやってくるのかと凄く高揚して、僕のことを応援してくれている先輩や友達、家族にチャンスが来たと連絡したのを覚えてます。

そして試合当日、

結果だけ先に言うと、試合は3-2の勝利で個人成績は90分フル出場の2ゴール1アシストといったまずまずの結果を挙げることができたのです。

それも前半の45分だけで2ゴール1アシスト

その試合一緒にツートップを組んだU-20韓国代表の選手より内容も結果もその試合に関しては良かったと思います。しかも元々前半の45分だけの出場という話だったので、いきなり90分フルで出してくれたと言うことは僕のプレーに関心を持ってくれたからに違いないと思っていましたし、試合後の選手何人かからは『お前のおかげで勝てた。』『チームに来いよ。』と言ってくれる選手もいました。

そして試合後には試合を観ていた僕の代理人にも『流石に1発合格ってことはないと思うけど今日の出来だったら次はチームの練習に必ず呼ばれるよ。』と言われました。

とりあえず次に繋げることはできたっぽいな。』と嬉しさより安堵の気持ちが意外と大きかったのを覚えています。しかし、それでも自分の中では不安要素がありました。

それは何かというと、元々前半だけのプレーだと言われていて、自分でもそう思っていたので前半の45分間に自分の全てを出し切ってしまい、急遽フルでいくぞとゆわれて出た後半の自分のプレーが納得いかなかったからです。
後半が始まってから10分くらいの時に、
スプリントをした際に人生で初めて試合中に過呼吸になりました
それからはなんとか誤魔化しながらフルタイムを消化したといった感じです。それくらい前半の45分で自分の全てを出し切ってしまったのです。

そして僕の悪い予感は現実になります

テスト結果は不合格

次の練習参加にすらこぎつけることができず1発不合格でした

理由を聞くと『後半にプレーの質が下がったのが印象が悪かった。

そのたった一言でした

それでもチームメイトの誰よりもその試合では結果を残したし、試合だけで判断せず練習にも呼んでくれよ。』と正直思いました。

そして90分フルタイムの試合を通じて運動量が落ちないのが大学時代のコーチにも言われた僕の強みの中の1つだったので、その部分で悪い評価を貰ってしまい『最初から90分出るって分かってたらちゃんとペース配分したのになあ。』と思ってしまったりもしました。

ですが最初から90分出ると分かっていたら、前半だけで2ゴール1アシストを記録することが出来なかったかも知れません。

そして、サッカーは90分行うスポーツであって延長も入れるとフルタイムで120分行うスポーツです。
なので選手は90分〜120分を走り切れることが当たり前でないといけないのです。

つまり、なにを思って言おうがその全ては言い訳にしかならず、シンプルに僕の実力不足だったということです。

そうして僕の初めてのプロテストは残酷な現実を打ちつけられたような形で終わりました。

しかし、今の自分の現在地からプロ選手までの距離をなんとなく把握できたし、今の自分に足りない部分を明確に知ることができたので、不思議と自分が思ってたより気持ちの切り替えは早くできました

なんだったら落ち込んだのは1日くらいで、『自分には足りないことがいっぱいあるけど自分が思っていたよりプロは遠い様で近い。なれるかどうかはほんまに自分次第やな。』と今回の経験を得て思いました。

そしてまた冬に訪れるプロテストに標準を合わせて韓国で半年間練習をするわけですが、これも結果から言ってしまえば、冬のプロテストは不合格はおろか、1つのチームにも参加すらすることが出来ませんでした

理由としては、プロテストが行われる時期に再びコロナが蔓延して、プロテスト自体が中止になったチームもあれば、一次審査の書類審査で落とされてしまったなどがあります。

夏から冬までの期間に、お世話になっていたチームの先輩から3部や4部のチームを紹介できるよといった話もいただきましたが、そのプロテストのことだけを考えていたので全て断ってしまい、どのプロチームのテストにもいけないとなってから3〜4部のセミプロチームのテストに応募しましたが、応募したのが遅かったことや、そもそも韓国での経歴が0なので一次審査の書類審査で全て落ちました

プレーを直接みてもらうことすら叶いませんでした

こんなことなら先輩がチームを紹介できると言ってくれていた時に、3〜4部のセミプロだったとしてもそのチームにいって経験を積み、サッカー選手としての経歴もつくれば良かったとも思いましたが、それはあくまでも結果論なので、結果だけをみれば判断を間違えたかなとは思いましたが

それでもプロにこだわったことは後悔していません

そしてVISAの関係上、一度日本に帰国せざるを得なくなって帰国することになります。結果だけをみれば自分が目指していたところには届きませんでしたが、それでもサッカー選手としての自信を取り戻せたし、サッカーを通じてはもちろん、それ以外の私生活の部分でもこれからも大切にしたいと思うような素敵な出会いが沢山あったので韓国には感謝したいです。🇰🇷



6.今年(大卒2年目)


今年の2月に帰国してから2週間の自主隔離を終えてからすぐに、とあるチームに2週間練習参加させてもらいました。

冬を目指して自分で自分を認めてあげれるくらい必死にやってきたのに、結局どのチームにもみてもらうことすらできないまま冬を終えることが嫌だったので、自分というサッカー選手の資料を知り合いに頼んで色んなチームに送りつけて貰ったところ、そのチームが練習参加を快く承諾してくださったのです

ですが、そこで僕は練習参加の途中で股関節の怪我をしてしまいます。それでも我慢して2週間の練習参加はしましたが、2週間もあったのにもかかわらず自分のプレーをみせることができないまま不完全燃焼といった形で終わってしまいました

そしてここでも結果は不合格。当たり前の結果です。

どのチームにも所属できず、自分のコンディションが落ちていくことを恐れた僕は股関節の痛さを我慢しながらそれからも複数のチームの練習参加にいき、最終的には関西社会人リーグ所属のチームに1ヶ月ほど練習参加をさせていただくことになります。

しかし、そのチームにお世話になっていた最中にまたコロナが蔓延して県で緊急事態宣言が下され、練習生の僕はチームに所属していない身なので、県のサッカー協会が決めた『コロナの蔓延防止の為、チームに所属していない者の練習参加を禁じる』といった決定のもと緊急事態宣言期間、練習先を失うことになります

そしてこのタイミングで2月に怪我して、それからもずっと痛かった股関節を診てもらうために病院にいきました。

診断結果はグロインペインでした。

ゴン中山や中田英寿も現役時代悩まされたと言われている怪我です。僕の友達にはこの怪我にずっと悩まされてサッカーを引退した子もいました

絶望です
サッカーどころか5割程度の力で走るだけで激痛が走りました。

この時から僕は少し腐りました。『ついてなさすぎる。』『なんで俺だけ。』そんなことを思いながらプロになることだけは諦めてないくせにやる気は全然起きなくて、そんな時でも昔から今までお世話になってきた人達との繋がりのおかげで、色んなチームから練習参加のお話はいただけます。しかし当の本人が怪我でサッカーが全くできないというもどかしさ。
ジムで筋トレと、配達のバイトを繰り返しながら精神がすり減るような日々が続きました

それでもやっぱりプロは諦めれなかったので思い切って父に相談することにしました。

相談の内容は『俺は東京にいきたい。怪我が治ったらそこでサッカーして自信も取り戻して、働いてお金も稼ぐから。今はメンタルがやられすぎて何もかも自信がない。』簡潔にまとめるとこのようなことを言いました。なぜ父に話したかというと東京に行った時に必要な初期費用を借りる為です。後で働いて返すつもりで言いました。

なぜ東京なのかというと、話をいただいていたチームの中の1つに東京のチームがあって、そのチームは僕の知り合いもいたし、仕事もさせてもらえる。そして話をいただいたチームの中で所属しているリーグのカテゴリーが1番低いチームだったからです。今まではプロを目指す為に自分が試合にでるとかよりも、まずチームのレベルの高さやそのチームがプロチームであるかどうかなどを最優先してこだわってきて、韓国の時はセミプロチームの紹介もプロチームのテストにいくからと断ってきた男が、話をいただいた中ではチームのレベルもリーグのレベルも1番弱いと思われるチームに行きたいと言ったのです

自信を取り戻したい』とかいう言い訳をして。
明確な意思のようなものを持っていてその発言をしたのであれば、別にその選択も間違いとは思いませんが、今思えば完全に『逃げ』の意識からでた発言でした。

去年からの1年間、どんな理由で何回テストに落とされようがめげずに頑張っていたのが、グロインペインになりサッカーができなくなったのがトリガーになり、なにか張り詰めてた糸が切れたような感覚に陥ったのです。

完全にメンタルがやられました

今思えば言ってることとやろうとしてることが無茶苦茶で芯の部分がブレブレで物凄くダサいです。

そんな僕に対して父は理解するのに苦労している様子でしたが、でも全否定したり怒鳴ったりするわけではなくしっかりとした口調で助言をしてくれました

それから僕も自分の中での考え方を変えれるようになります。
突発的に物事を考える癖があるので一旦落ち着いて考えてみて、それでも東京にいきたいとなったとしてもどっちみち今は怪我をしているので焦らずにまずはその怪我を治してから東京にいけばいいし、『サッカーができひんならこの期間は元々サッカーに当ててた時間を筋トレに当てて身体を最初からつくりあげよ。』と言った風に考えれるようになり、実際に4ヶ月ほどで食生活と筋トレで72kgから77kgまで体重が増えました。(筋肉だけで5kgも増やしたわけじゃありませんが...体脂肪率も上がったので頑張って減らします。)

そして怪我も順調に回復してきて徐々に運動も再開してきた時期に、ある先輩と連絡をとることになります。
その先輩は僕の大学時のサッカー部の先輩で、現在はオーストリアでサッカーをしている先輩でした

大学時代からお世話になっていて卒業してからもちょくちょくではありますが連絡をとる仲でしたので、僕が海外に興味があるということも知ってくれていて、話だけでもいいから聞いてみる?とその先輩がオーストリアでサッカーをするきっかけになった方と僕を繋げて下さったのです

そしてその方との文面での連絡や電話での会話でこの方は信用に値する人物であることを確信し、オーストリアのサッカーに魅力を感じたので
僕自身初のヨーロッパ挑戦をあなたが作成したプロジェクトの契約選手としてスタートさせたいとお願いして自身の選手経歴やプレー動画を送らせていただき、契約をさせていただくといった形になりました

そして今は来年の1月にオーストリアで行われるトライアウトに向けてコンディション調整をしているところです

大学最後の公式戦でPKを蹴る瞬間の僕です。後ろにいる相手がその先輩です。ちなみにPK外しました。


これまでのサッカー人生』はこういった感じです。
次の投稿では
幸せとは』について書きたいと思います。

長文失礼しました。最後まで読んでいただいた方は誠にありがとうございます

7.補足

すみません。最後に補足としてなぜ大卒でドイツかスペインに行こうとしていたかというと
ドイツは、僕が自分だけで、海外でサッカーをするルートを探った時に行き着いた国がドイツでした

スペインは、そんな僕に当時のサッカー部のコーチが『お前のプレースタイルを考えるとドイツよりスペインが合うと思うよ。』と助言をくれて、スペインのチームを紹介できる方を紹介して下さったのがきっかけです

なので気が変わってオーストリアに急遽変更したというよりかは、ドイツかスペインに行こうとしていた2年前の僕は国選びをそこまで重要視していませんでした。海外でサッカーをする為に色々と行動を起こしていたら気付いたらドイツとスペインの2国に絞れていった。といった様な感じです。

しかし今はちゃんとオーストリアという国とその国のサッカーに魅力を感じて僕の欧州サッカー初挑戦はオーストリアで始めたいというこだわりを持っています

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