人はあわれな生きもの
今朝は快晴。最高の朝。
朝の瞑想は台所で椅子に座って。
私の瞑想は、どこでも可能。
バスの中でも、公園でも。
瞑想に入ると、腹部と背中があたたかくなる。
温泉に浸かり、背中をマッサージされている感じで
とても気持ちいい。
こんなに安上がりな快楽はないだろう。
おまけに、活力がわきあがる。
日常は、ふらふらして、不安があるが。
瞑想のとき、不安はない。
この世で、人は死ぬことはない、無になることもない。
前のブログで書いた。
死も無も、勿論、有も、言葉や概念に過ぎない。
人が生活の必要から作った道具、それが言葉。
非常に役立つが、それだけ。
この世の真実や法。
それさえも、言葉。
残念ながら実体はない。
人の空想のようなもの。
言葉や概念や数学、
非常に役立つ道具。
ロケットを飛ばしたり、宇宙兵器がつくれる。
ネットで全世界を繋げることもできる。
人は自死できるが、本当に死ぬわけではない。
ただ、死んだまねができるだけ。
二度と目が覚めないという死んだまね。
残念ながら、人は死ねない。
生きるということも、マボロシのようなもの。
本当に生きているかどうか、それさえも分からないのが人。
人は、あわれな生きもの。
今朝の新聞に、30代初めに失明した男性のこと。
しばらく、無気力に生活していたが、
カブトに興味を持ち、城にも関心が。
自作でカブト(約12kg)をつくり、城めぐりが生きがいに。今、46歳。
人は何でも生きがいにできる。
短い生だから、万能は不可能だが。
カブトの肌触りがとてもいいと言う。
目が見えないので、その分、肌感覚が優れている。
例えば、新生児が生まれて、
目が見えないと知った場合。
医師は母親にこのように言うという。
お子さんは、残念ながら、目が見えません。
ではなく。
「お子さんは、特別な才能があります」
目が見えない人は、
外見に騙されることが少ないだろう。
人は容易く騙される愚かな生きものだから。
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