なんと あわれな
ひろすけの長崎歴史散歩という旅行番組を見ていたら、
「凡人になろう野を超え山を越え」という立派な句碑が出てきた。
たぶん、昭和の初めくらいの句碑だろう。
この方は自分を凡人と思っていないようだ。
努力して凡人になろうとしている。
凡人である価値や意味に目覚めたのかもしれない。
上記番組でコルベ神父のアウシュビッツ体験も紹介された。
長崎にはコルベ神父に因む聖母の騎士修道院がある。
コルベ神父は、身代わりとなり餓死刑を受けた。
刑を受けた餓死室は祈りと歌声で、
聖堂のようだったと伝えられている。
死後、教皇により聖人に列せられる。
伝記によれば、彼は日本で聖母マリアから、
「確実に天国に行ける」という約束を
受けたと親しい友人に打ち明けているという。
人は長い人生で、彼のように啓示をうける。
啓示にはいろいろある。
例えば、インド哲学の梵我一如、
宇宙の真理も我も同一だという啓示などもそうだろう。
成功も失敗も同一だとも言っている。
我の中に宇宙を感じる者は、
まさに、空を感じるのだろう。
そして、人生での成功も失敗も同じことになるだろう。
人であること、
人として生きることの、
空とは、
あわれさ、ではないだろうか。
私は、この世の悲惨には鈍感。
例えば、難民で、今日飢え死ぬかもしれない。
子が病になっても、誰も見向きもしない。
飲める水もない。
たぶん、悲惨と言えるかもしれないが。
宇宙(我)は、きちんと見ているだろう。
私は神がいるとは思わないので、
宇宙(我)というしかない。
この世に、理由や根源など深淵なる法則があるはずと、
思う人がいるのは事実。
たぶん、ものごとに理由があると思う方が、
納得しやすい、こころが安定するのだろう。
神がいると思う方が、安心できるのだろう。
真理があると、信じる人が多いのも事実。
私は、理由や真理はないと、思う。
何故なら、それは言葉に過ぎない。
言葉だから、ただの記号。
便利な道具にすぎない。
人の社会生活にはとても役立つ道具。
道具を使って、真理を得るなど、
とうてい不可能ではないだろうか。
道具ができることは、
モノを作ることくらいだろう。