死後の世界

死後の世界について考えてみた。

死後の世界はないというのが、今のところ、私の結論です。

どうして、そのように考えるに至ったのか。
まず、人が生きるとは、どういうことか、それがいくらか分かったからです。

人が生きているのは、意識があるのと同じです。
意識がなくなれば、死ということになります。

意識とは何か。それは、胎児のときからの体験の集積でつくられます。
全身の細胞のつながり、神経系や筋肉系などの働きの記憶の総量ともいえます。

中心となるのは脳の働きですが、全身の全ての細胞のネットワークが関連しています。

人の意識は、記憶されている情報の一部です。
表面の浅い部分です。

意識されない量が圧倒的に膨大です。

人が生きるとは、私や自分や自我なるものと関連していますが、私や自分という概念さえも、非常に漠然としています。
どこまでが自分で、どこからが自分でないのか、
境界ははっきりしません。

瞑想して内面と対話すれば、よく分かります。

人の自我(私という自覚)が生まれるには、周囲の環境の影響がとても大きいのです。

私という思いの中に、私だけのオリジナルを見つけるのは容易ではありません。

全てが他からの借り物です。言葉や概念のほとんども借り物です。

私や自分でさえも、はっきりと分からない。
それが人の生き方です。

当人は好きだからやっていると思っていても、
どうしてそれが好きになったのか、
どこまで自分の自由な選択であるのか、明確ではありません。

人は、概念や言葉を使って考え事をします。
この概念というものが、また、明確ではありません。
一定の有用性や効用はあります。

人が社会生活が送るために、非常に便利で不可欠な道具ですが、道具にすぎません。
この世の法則など普遍的な真理を明らかにする万能の道具ではありません。

人は、意識というはかない仕組みの上にのっている儚い存在です。
意識から作られているという限界です。

もろく、弱いのです。
そのイノチも非常に短い。
何かを成し遂げるには短すぎるでしょう。

人が生きるとは、このように確かさが不安定で、かつあいまいなものです。

そして、死もまた、不確かです。
何故なら、死の直前に意識を失うので、人は死を体験できません。

生も死も確かでないのが、人の生き方です。
当然、死後も不確かです。

長く生きると、生きることの意味が見えてきます。
人が生きるというのは、
非常に哀れなものです。


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