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仲倉重郎先生のこと

追悼って言いたくないけど追悼の文章だと思う。

とにかく物覚えが悪くてバカですっとこどっこいだった私にとって、先生という存在は「私に呆れている大人」というイメージしかなかった。
担任に面と向かって「お前バカだろ」と言われたこともあるし、数学の先生には深い溜息をつかれて廊下のすみっこで「やる気あるのか」と詰められたこともある。

両親も人の粗を探すプロなので、基本的に大人に褒められた経験のない子供だった。無いわけでもないのだが、とにかく卑屈に育っていたので「お世辞で言ってるんだな……恥ずかしいからもうやめてくれ……」と思っていた。自覚している成功体験のようなものも思いつかない。

そんなエキスパートすっとこどっこいの私が、14年間の学生生活のなかでいちばん楽しかった授業が高校の脚本創作だった。
高校の名前と恩師の名前でググってもひっかからないので、実名で書かせていただく。
脚本家で映画監督で作詞家の仲倉重郎さんが講師だった。

当時の私は、インターネットに支離滅裂な小説を載せていた。満を持しての中二病ファンタジーである。
小説の書き方なんか1ミリも理解せず、好き勝手書いていた。中学生の時から書きはじめてせいぜい3年ぐらいの歴だし、まあそりゃあそんなもんだよなみたいな出来である。
フォレストかナノかなんかで作ったサイトに作品を載せ、同盟とかランキングとかにも参加していたが、アクセス数を見るに閑古鳥のサマソニが開催されていた。感想をもらうことなんて本当に本当に稀だった。
そのくせ、これぐらいの歳でなんか作りはじめた人ってだいたいそうだったと思うのだが、自分のこと天才だと思ってた。

そこに現れたのが仲倉先生である。
恐れながら申し上げると、16歳の小娘からすれば、車椅子に乗った60代後半の彼を「おじいちゃん」と認識しても不思議ではない。でも、そういう印象を受けなかった。とにかくプロの脚本家にはじめて会ったので、無条件で尊敬の眼差しで見ていたのかもしれない。
松竹で山田洋次監督にお世話になったとのことで、映画好きの小市民からすれば眩しすぎる存在である。

たしか最初の授業にやったのは、起床してから登校するまでのあいだの出来事を短い脚本にしよう、というものだ。
受講する生徒の全員が脚本をはじめて書く。簡単に原稿用紙やト書きのルールを教わり、とりあえずやってみようというかんじだった。
たしかそのときは、全員がその日実際に自分が学校に来るまでの様子を書いた。

脚本は場所と時間帯(そのシーンの舞台)を提示し、登場人物の挙動をごくシンプルに書き表していく。
小説とは似て非なるというか、また別の技術だ。ストーリーの起承転結を明示していくことだけが目的であり、よほどストーリーラインにおいて重要でない限り演出の指示などはできない。というか要らない。

いかに台詞だけでストーリーを転がしていけるかが大事だ。優秀な脚本ほど、小説でいうところの地の文よりも台詞の割合が多いという。
演劇脚本だとまた違ってくるだろうが、映像脚本を勉強することでストーリーありきのコンテンツをつくるのに必要な基礎力はかなり鍛えられるはずだ。

と、いうことを体感しだすのはもう少し後になるが、わからないなりに初めての脚本を書き上げて提出した。次回の授業でみんなで読み合わせる。
とてもわくわくしたのを覚えてる。授業は週に1回で、午後の最後のコマだった。早く来週にならないかなと思いながら、学校から最寄駅への坂道を足取り軽く降りていった。次の授業が楽しみなのは、ほんとうにはじめてだった。

で、次の授業。
全員の作品が刷られたプリントが配られ、1作品ずつ仲倉先生が講評していく。面白いところや良いポイントはしっかり褒めつつ、脚本として考えたときにはこういう書き方はしないということだったり、第三者から見てわかりにくいシーンの真意を本人に聞いたうえでアドバイスしたり。

頭ごなしにアイディアを否定したりしないけど、むやみやたらに賞賛したりもしない。生徒同士でも互いの作品に意見を出し合ったり、ほんとうにしっかりした「脚本の基礎」の授業だった。

私の作品は後半に取り上げられたので、どきどきしながら先生の言葉を待った。
「小町さんの作品がもっとも脚本の形を成してます」
えっ!?!??? 私って脚本書けてるの!!?!?! やった~~ーーーーーーー!!!!!
と内心めちゃくちゃ喜んでいたが、2週目だし仲倉先生とも受講生ともそんなに仲が深まってないのでスン……って顔で先生の話を聞いていた。つもりだけどすごくニコニコしてたかもしれない。

この時にたしか「1年間のあいだに観た映画を全部挙げて」という宿題も出されていて、思い返しながらタイトルを書きだすのも楽しい作業だった。とにかくティム・バートンとハリウッドのことが好きだったのもこの時期である。

基本的にお題にそって短い脚本を書き、次週はみんなで講評するというルーティンだった。原稿用紙数枚ではあるものの、限られた時間の中で先生が「今日はこのお題」と言い放ったものをみんな仕上げてたんだから、ティーンの瞬発力ってすごい。

書き終わらなくて「もうちょっと待ってください!」とチャイムが鳴り響く中でシャーペンを走らせることもあった。先生は「待つよ」とにこにこしていた。いつだか私だけめちゃくちゃ遅くて、部活かなんかで使うから移動してくれと頼まれて先生とふたりで狭い教室に追いやられたこともあった。

基本的には脚本の授業がその曜日にその教室を使う最後のコマで、放課後はそのまま仲倉先生と映画やドラマの話をしていた。二言三言話していく人はいたけど、最近のアレが面白かったとかアレがつまんなかったとかだらだら喋ってるのは私だけだった。たぶん、自分のことを肯定してくれる大人として無意識のうちにすごく懐いてた。

「君はひねくれてて面白いなあ」とよく笑われた気がする。先生の懐が広いので、斜に構えて調子に乗りまくっている女子高生を受容してくれていた。

当時放送されていたファミリー向けドラマが話題にのぼり、家族が観ているのをなんとなく横目で認識しているだけの知識で「子供だましのドラマじゃないですか」などと発言した私に、真剣な口調で「子供だましなんかじゃない。とても出来のいいドラマだよ」と諭すこともあった。

しょうじき、先生と交わした会話のほとんどを忘れているけど、それはすごく恥ずかしかったのでよく覚えてる。
これも授業中ではなくて放課後のことで、ただ書くのが好きでちょづいてる小娘を「アホやな~」というかんじで眺めているだけではなく、映像作品や脚本について語るときの視線が対等だった。確固たる意見はまったく譲らない。尊重ってこういうことなんだろうなと、今にして思う。

講師としてとてもフランクで、そのコマに授業を取ってない友人と授業前に教室で雑談していると「よかったら参加していく?」と誘ってくれることもあった。
学校にあまり真面目に登校してなかった(単位制なのによ)し、出席日数をカウントしてセーフならサボってた(単位制だからよ)りしたんだけど、脚本の授業は唯一真面目に出ていた。
どんだけその日の授業をすっぽかしてても脚本だけ出席してた。何の用事だったか忘れたが、どうしても早く帰らなきゃいけなくて「先生ごめん今日出れない」って顔だけ出した。ほかの授業は無断でドカドカサボるくせによ。先生も咎めるでもなく「じゃあプリントだけ持っていきな~」って手を振ってくれた。

そんな調子で2年間履修した。制限があって1年生は選択できない。
必修科目ではなく、年度ごとに解散するのだが、2年目の授業は受講人数が倍以上増えてさらに楽しくなった。2年目の最初の授業も、登校するまでのエピソードを脚本にしようというお題で、このときはフィクションもアリだった。1年前と同じお題で書くと、上達してる自覚と自信が得られた。

人数が増えてにぎやかになり、講評も活気づいた。
この人の作品おもしろいな……と感じることも増えたし、私が書いたものに「すごい!」と複数人から声があがったときは本当にうれしかった。年度の後半にはみんなでログライン(〇〇が〇〇する話)の案を挙げまくり、その中から気に入ったもので脚本を書いたり、前年とは違う趣向の授業もあって、まったく飽きなかった。

「お題にそって短編脚本を時間内に完成させる」「プロに意見をもらいながら、参加者同士でも意見を言い合う」という経験を高校でできたのは得難いことだ。このあと専門学校に進学し、中尾彬のストールぐらいねじくれた20歳そこそこの物書きたちが結集した環境に身を置いても、どっしり構えていられた。

最後の授業のことがよく思い出せない。
今まで書いたものをすべて印刷してまとめた冊子を、受講生ごとにまとめて本人に渡してくれた。実家に帰ったらまだあるのか、引っ越しなどのどさくさに紛れて失くしてしまったかもわからない。

はっきり覚えてるのは、文芸の専門学校に行くと言うと「大学に行ったほうが遊べるのに」とゆるい調子で返されたことだけだ。
それと、私が進学する専門学校を創設した人物の伝記を読むことを薦められた。タイトル教えてくれたのにまだ読んでない。読みます。

どうにか他の会話も記憶から拾い上げたいのに、それ以上思い出せない。はっきり言って先生の声ももう思い出せない。
18歳なんだから「お世話になりました。ありがとうございました」ぐらいはさすがに伝えてると思う。握手をしたようなしてないような気がする。「いつかお酒飲みましょうね」とか言えたかな。言っててほしいな。言ってない気がする。
教室を出て車椅子を転がしていって、先生が乗り込んだエレベーターの扉が閉まる。何度と見たその後ろ姿が、やっぱり最後に観た姿だろう。


専門学校の脚本の講師も松竹出身だった。訊けば「仲倉監督にはお世話になった」という。
やっぱりギリギリ単位さえ取れればいいやという舐め腐った態度で通学していた。卒業後に同級生に会うと「思い返せばけっこう面白いことしてたんだから、もっとまじめに受ければよかったよね」という話になる。おなじこと言ってる社会人いっぱいいるよなあ。

その後ウェブライターになったが半年ちょっとで辞め、以降は接客業をやりながら趣味で小説を書いている。脚本を学べたのはかなり有意義だったが、作品を総監督したい私には小説のほうが心地いい。

仲倉先生のことは、ふと思い返すたびに「元気かなあ、会いたいな」と思っていた。先生の連絡先なんて知る由もない。ググれば取り次いでくれそうな関係先は出てくる。けれど仲倉先生は映像業界の功労者で、私は彼の授業に2年参加してただけの小市民である。

そんな私が関係先に取次を頼んでも、門前払いされてしまうのではないか。ていうか私のことなんかもう忘れてるんじゃないか。関係先がお伺いを立ててくれたとして「誰だそれ」で終わるんじゃないか。
と、諦めてしまうのが常だった。そして「公募で賞を取ったとか商業出版したとか、胸を張って報告できることが成せたら会おう」と気持ちを締めくくっていた。

私がなにも成せないうちに先生は亡くなっていた。
「元気かなあ、会いたいな」の周期がまたやって来て、今なにしてらっしゃるんだろうとググったら訃報が出てきた。今年6月、大腸がんとコロナ感染が重なってしまったらしい。

それを知ったのが先週のことで、ずっと落ち込んでいる。
帰り道を泣きながら歩いたり、職場のお手洗いの個室で泣きだしてマスクがキモくなったりするたびにもう泣かんとこと思うのに、ふとした瞬間に泣きはじめると止まらなくなる。
先生がいなくなってしまって悲しいし、再会できなかった後悔が尋常ではない。ほんとうに自分でもびっくりするぐらい自分のこと責めてるし情けないし、やっぱり私ってバカなんだな……になってる。

私は頑張って賞獲ってデビューしようという気概もないし、バズり散らかすような小説も書けない。先日も文フリの末席出店者として、又吉直樹が参加している合同誌が頒布されるスペースに一般参加者がぞろぞろ進んでいくのをアホづらで眺めていた。

誰の目から見ても明らかな「成果」がないと、仲倉先生の前に立てないと思っていた。
でもそんな必要なんかなかったはずだ。有名になれとか商業作家になれとか、そんなことを先生に言われた記憶が全くない。
ただただ今も楽しく書き続けていて、その根底に仲倉先生がいる。いちばん最初に物語に向き合わせてくれた大人が、仲倉先生で良かった。
それだけ伝えられればじゅうぶんだったのになあ。

関係先に取り次いでもらい、先生の奥様から菩提寺を教えて頂いた。
想像以上にあっさり連絡がつき、だったら生前に勇気出して問い合わせればよかったのに……という後悔と、奥様が電話口で「喜ぶと思いますよ」と仰ってくださったことに安心したのとで号泣してしまった。こんな調子なのでしばらく情緒不安定なのは覚悟している。自分を責めるのはやめたい。

会ったら何を言おうかな。
先生はたぶん私のことなんか忘れてるので、思い出してくれるものを用意していかないとダメだなあ。
とりあえず第一声は「先生、お元気ですか」に決めてる。そしたら「もう死んでるでしょうがあ」って「君はひねくれてるなあ」の調子で笑うんだろうな。
今書いてる小説の話をして、さいきん観た映画の話をして、いつかの放課後みたいにとりとめなく喋りたい。

「恩師の訃報にショックを受けている女性を主人公にして、どんな脚本が書ける?」
西陽の射す教室で、原稿用紙と私を前にして、愉快そうに言い放つに違いない。

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