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Sun Yuan and Peng Yu "Can't Help Myself"

近年知った現代アートの中で、これが圧倒的に強く印象に残っている。



Sun Yuan(孙原)とPeng Yu(彭禹)は中国の二人組現代美術家。この作品は2016年にグッゲンハイム美術館とのコミッションワークとして制作されたインスタレーションで、2019年にはヴェネツィアビエンナーレのメインパビリオンに出展された。

真ん中に据え付けられているのは車の製造などに使われる産業用ロボットアームを改造したもの。視覚認識センサーを搭載していて、赤黒い液体が一定の領域を超えて広がると、はみ出したところめがけて搔き寄せにいくようプログラムされている。アームが機械音を立てて回転しながらヘラを下ろすたび、作品と鑑賞者を隔てる透明な壁に血のような飛沫が散る。

鑑賞者に嫌悪感を催させるような意図を含んだ作品や、社会問題への直接的すぎるカウンターのような作品は、良し悪しは別として私はあまり好きなほうではない。この作品も正直苦手な部類に入るかもしれなかった。血糊を使うこと自体結構どぎついし、もしこれが普通のロボットらしく勤勉に働くだけだったらコンセプトの堅苦しさにウッとなって早々に記憶から追いやっていたかもしれない。

なのに動き方が変態だったせいでそうした忌避的な鑑賞態度がすっ飛ばされてしまった。蛇のように鎌首をもたげたかと思えばゼエゼエ息切れしたりしていてどうしても気になる。表現が少しでも違えば硬直した二項対立に回収されてしまうかもしれないところに、所作の有機物的キモさが別のベクトルを生んでいる感がある。美術館の説明によると "痒いところを掻く"、"お辞儀をして握手する"、"お尻を振る"などの動作が32種類インプットされているらしい。権威や非情さを思わせる巨大なアームに尻を振らせるユーモアが、この作品の射程を大きくしている。

アームと血はそれぞれ何を示唆していて、どのような関係にあるのだろうか。要素をどう捉えるかによって解釈のバリエーションがありそうなので、思いつくままに書き出してみる。

例えばアームに武器や軍隊(arm,army)を重ねた場合。私は最初これを見たとき、各地での紛争と武力介入が表象されているように思った。どこかの争いを収めようとするとそれが遠因となって別の場所で血が流れる。床は地図であり、いま戦場になっているエリアか、これから戦場になる(かつて戦場だった)エリアのどちらかしかない。血は争いそのものだ。中心から生えたアームは武力をもって争いを片付けようとする巨大な制裁機関であり、争いをせめて一定の範囲内にとどめなくてはという強迫的な集団意思が表出したものと捉えられる。
この見方においては、血とアームは<争い>と<調停・制裁>という人類が根源的に持つ別の傾向をそれぞれ表象している。争いは根絶できない。どれだけ掃除しても汚れはなくならない。この堂々巡りは終わりのない調停活動の空しさを際立たせ、一体何のために躍起になって状況を取り繕わなければならないのか?といった苦しい疑問を鑑賞者に抱かせる。しかしアームは、秩序の回復という完遂不可能な命令の磔にされており、その役割から降りることができない。


「圧倒的な力が血を<中央>に集め続けている」と捉えた場合、アームは中央集権化の動きを表し、血はそれに抗う<辺境>を表すことになる。
<中央>が示すのは国家、独裁的な体制、母体、多数派、管理者、中心都市などであり、<辺境>には個人の自由意志、少数民族、異端、芸術、荒野など、<中央>による地均しや集約をかいくぐろうとするあらゆるマージナルなものを当てはめることができる。
アームの届かない床や透明な壁に飛び散った血の一筋一筋が、辺境者にとっての逃走経路となる。血のほとんどが搔き寄せられても、一定量はこの狂ったような円形の舞台を脱し、もはや干渉されることのない線を描いていく。無数の飛沫の跡は一見すると凄惨だが、この文脈では希望とも見なせる。
一方アームにとって血は自己を構成する要素でもあるから、流出しないよう見張っていなくてはならない。armは集権化の執行機関であると同時に、増大し続けるエントロピーに抗って自身の外郭を保持し続けるための腕でもある。
<中央>はいつも倒されるべき絶対的な強者というわけではない。例えば私たちが身体の主として医療技術を用い老化に伴う不調に抗おうとするとき、長く生きようとする意志は荒野化しつつある身体に対して<中央>に位置付けられる。放っておくとたちまちバラバラになって野に還ろうとするものを抱擁し繫ぎ止めるための腕は、主体のアイデンティティ存続のためにどうしても必要なものだ。それでもタイトルの通り、いつか持ちこたえられなくなり同一性は崩壊する。"Can't help myself"には暫定的に中央を占めている勢力と辺境側勢力の関係に対する予見、期待、詠嘆などの複雑な感情が織り込まれている。そして何より作者たちの母国中国の体制(広大な国土を維持するための、辺境に対する制圧的な振る舞い)への皮肉も含まれているのだろう。


要素だけに注目して二項対立的な見方をすると上記のようになるけれど(他にもまだ考えられそう)、やっぱり機械にしては異様な動きが持ち込まれているせいで混乱してくる。そもそも倫理的になんとなくアウトっぽいものを見せられている気がする。戦車のように人間が操作している場合とはまた違い、自律的に動く機械が血生臭いのは禁忌だという認識があるからだろう。
このアームの所作は人間が得体の知れない生き物(特に肉を食べる種類の)に対して抱くような感情を引き出すように思われる。妙に神々しくもあり、野蛮でも間抜けでもある。外見は無機的な人工物なのに、ただ所作だけでどこか生き物っぽく見えてくるのはなぜだろう。それは私たちの中に、機械とは目的を達成するために最短経路の動きをするものだという前提があり、このアームがそれに反するような無駄だらけの動きをしているからではないだろうか。私たちは「非合理的な、いたずらにエネルギーを消費するような動き」の背後に情動の存在を期待し、そこに生き物らしさを見ていると言えるかもしれない。たとえむき出しの機械であっても身振りにこうした生き物っぽさを見出せばどこか親しみさえ覚えてしまう、人間の共感能力の底知れなさにも気づかされる。

私は生き物間の共感において身体が果たす役割は大きいと考えているので、人工知能が人間に共感しうるかというと、身体感覚が与えられない限りは人と人との間に発生する共感と同じようなものにはならないと思う。人工知能は感情に関わる言葉を記号的に処理して近い値を導き出すことはできるだろうが、人間は類推にリアルさを伴わせるために痛みや圧など自らの身体を通して経験してきた質感を参照してもいる。「我が身に置き換えて考える」といったような身体的共鳴を人間における共感から切り離すことは難しい。
しかし知能を持った機械に苦痛を覚える身体を持たせると間違いなく人間は彼らを使役できなくなる、かわいそうだと思ってしまうから。実用を目的とした機械が痛覚を与えられることはこれからもないだろうし、そうした苦痛と身体的な有限性に縛られない機械にとっての感情がどういったものかを人間側もまた完全には理解しえないだろう。
この作品のアームは視覚と筋肉が直結したような構造で、痛覚も思考能力もない。だから鑑賞者が抱くシンパシーは機械それ自体の感情に対してではなく、機械を擬人化・擬動物化した上で一方的にシミュレートした感情に対してのものだと言える。そのことを踏まえた上で、この作品に対してどのようなシンパシーがはたらくのかを考えてみたい。

寄りで見るとその迫力に圧倒されるが、離れた場所から見たときのアームは檻に閉じ込められた生き物のようで、恐ろしいというよりも衆人環視の中で見世物として使役されている感が強く、悲鳴のような音も相まってただただかわいそう、なんとかしてやりたいという気持ちになる。
身振りだけに注目しているとアームはだんだん人間のようにも感じられてくる。彼/彼女はひどく取り乱しているように見える、まるで偶発的に殺めてしまった誰かの血を茫然自失の状態で掻き集めているような。こうした強迫性は数多の悲劇においてクライマックスの一つとして描かれるお決まりの場面を思わせる。こんなはずではなかった、もう取り返しがつかない。誰もが悲劇に期待する、人間の感情メーターが振り切れてしまうシーンを、痛みも疲れも知らない機械がずっと同じ円を描きながら反復している。その空疎な上演に対する同情、満足、後ろめたさ、そして「可哀そう可愛い」という気持ち。
少し脱線するけれどこの「可哀そう可愛い」という感情は結構奥深いものだと思う。文化差はあれど、もしかしたら人間ならではのものかもしれない。慈悲とも同情とも完全には一致しない、憐憫が一番近いがもう少し支配-被支配と愛に繋がるニュアンスが強い、力関係において優位な側の感情。小さい動物が困っている様子が不憫だけどかわいい、といったような。力を持たない側が精神的にだけでも相手より優位だと思い込みたいが故に、相手をイメージ上で矮小化している場合もある。
この作品において人間と産業の対比を考えた時、人間が<産業>を代表するロボットアームに対してそういう気持ちを抱かされる構図になっているのは趣深い。この機械はセンサーで視認して液体を回収しにいく仕組みになっている。回収対象が血に設定されているだけで、鑑賞者もセンサーの射程には入りうる。私たちは可哀そう可愛いと思っている檻の中の機械に監視され、条件が少し変われば捕捉される側でもある。


Can't help myselfというタイトルについて、「自らを御しきれない」の他に、ことわざの「神は自ら助くる者を助く」(God helps those who helps themselves)を受けてもいるのかなとちょっと思った。この決まり文句におけるhelpはキリスト教的な救済という意味ではないらしいので違うのだろうけど、考慮に入れるとしたらselfをhelpできないアームにとって救済への望みは絶たれているということになる。
この作品のタイトルにも説明にもGodの文字はないが、神の不在や黙ったままの神といった概念は暗につきまとう。一箇所に釘付けにされ、徒労からの解放を望めない機械の姿はシーシュポスの神話を思わせる。複数の動物をパッチワークしたような動きをする奇怪な人工物も、その生みの親である人間も、等しく不条理な地上に係留されている。アームが天を仰いで首を振るとき、鑑賞者も彼と一緒にその先を見上げる。その所作は肉食動物が食事を終えて血のついた顔のまま空を仰ぐようでもあり、届く宛のない遠吠えのようでもある。

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ここからは蛇足

眺めていると、この機械が放り込まれた無限の労働に果てというものはあるのか、もし可能ならどういう状態を指すのかということを考えてみたくなる。文面で考えるなら<Can help myself>もしくは<Don't need to help myself anymore>になればアガリの状態だろうか。

<Can help myself>に関しては、秩序が混沌を制御しきって一時的な安定が実現した場合が想定できる。つまり監視と制圧を兼ねるアームが野放図な血の自由(流出する権利)を握り、コントロール下に置いた状態。
しかしこれが実現されるためには、血を囲い込める完全な<壁>を、センサーとヘラが行き届く範囲内に作る必要がある。壁は世界を管轄内と管轄外に二分し、<辺境>の曖昧さを否定する。もし壁の位置と堅牢さが適切な状態であれば、その限りにおいて辺境の乱雑さは抑え込まれ、<中央>は理想とする秩序を実現していられるだろう。


<Don't need to help myself anymore>に対しては少なくとも二つの場合が想定できる。一つは長い長い時間が流れ血がすべて蒸発・凝固してしまい、アームに割り当てられた仕事と存在意義がなくなる場合だ。命令の遂行が完了していないのに中身がなくなり行為が形骸化してしまった、拍子抜けの状態。かき集めて死守しなければならない対象はもはや存在しない。血が乾ききって無くなれば、血を治めるための秩序も、秩序を裏打ちする力も無用になる。与えられた任務からの解放。その時が来たらアームは運動を止めるだろうか。それとも義務だけが残り、戦後も見えない敵と戦い続ける残留兵のようにヘラを振り下ろし続けるだろうか。

もう一つの<Don't need to help myself anymore>は、いつか血が「本来のあるべき場所」に還ってくるという理想に基づいた場合だ。血が中心に回帰してきてselfが「もう一度」統合され、あらゆる不和が解消される。羊がみなホームに帰ってきて羊飼いであるアームがそれを抱擁し、世界が一つの完全になる。その「いつか」が来さえすれば、羊飼いは脱走羊を追い続ける無限の懲役(と、その懲役の原因になったであろう、かつて羊=血を世界にばら撒いてしまったという原罪)から解放される。そのとき、すべての苦しみは報われて意味のあるものとなる。すべての飢餓感は満たされ、もはや何かをあくせくかき集める必要はなくなる。羊たちが自ら回帰しさえすれば、壁と武力に頼らずとも統合と調和が実現される。
その「約束されたいつか」が訪れる宗教的理想の中でのみ、アームにとって救済としての労役の果てが成立しうるだろう。


そうした現実的な解決や理想的な救済とは無関係にselfをhelpしなくなる<Have stopped helping myself>も考えられる。血が流出しきり、羊たちが散らばりきってしまった破綻エンド。
アームを<中央>になぞらえるなら、ある時点で匙を投げたということになるだろう。増大し続ける混沌に対する秩序の降参、責任の放棄、破産、亡命。
アームを命令通りに作動する機械として捉えるなら、何らかの変異が生じ、当初の命令を実行しなくなったということになる。なぜそうなったのか。非現実的なものも含めると四つの場合が想定できる。

一つめは命令が実行不能になった場合。変異点(=障害)が発生して遂行が妨げられている状態。環境要因(停電や通信遮断)、物理的な故障(部品の破損や劣化、耐久限界など)、運用方法の間違い(人為的ミス)、命令内部のエラー(プログラムの不備や論理矛盾など)のどれか。
二つめは命令権限が他に奪われた場合。変異点(=権限の移動)が生じ、異なる命令が実行されるようになった状態。外部からの乗っ取りやハッキング。
三つめは機械による主体的な命令違反。変異点(=与えられた命令と実行の間のバッファ、機械側による命令の再評価が挟まる余地)が生じ、「いかなる命令も与えられた通りに実行する」という初期設定の正当性がメタ的に問われるようになった場合。
命令即実行の前提がもし機械によって崩れされるとしたら、それは機械に自他の境界意識、つまり内面というものが生じていることと同義だと言えるかもしれない。命令を自己の「外」からくるものとして認識していなければ、それを再評価することはできないからだ。そして仮にそうなれば、機械は複数の命令を比較した上でどれを実行するか、あるいはしないかを選択するようになるだろう。また人間に対して自己決定権(外部命令よりも自己命令を優先させる状態)を主張するようになるかもしれない。
フィクションではこうした形で機械の反抗が描かれることがあるが、実際のところ機械は条件とデータを基に処理した結果を出力するだけで、主体にとっての物事の意義について評価するようにはできていない。言葉の並び上では神や人間を問うことができたとしても、意義ある命令逸脱をしうるかというと、それは今のところ空想の範疇にとどまっていると思われる。
四つめは機械側での命令改変(自己進化)。これもフィクションだが、最初の命令と条件に沿って開始した処理の結果や外部からのフィードバックがプログラム自体に再帰的な影響を及ぼし、命令や条件が改められていくような場合が想定できる…かもしれない。
この作品で言えば、アームが稼働し続けるうち元の命令とは明らかに異なるベクトルを持った一連の動きが出現してだんだん優勢になっていく、みたいな。ただそのベクトルが意味するところも、何故そこに至ったのかの過程も、必ずしも人間にとって理解可能なものになるとは限らない。もしアウトプットの意味内容(そもそも意味自体あるのか分からないこともあり得る)とそこに至るプロセスの両方が追えない場合、この先の変化の仕方はアウトプットの形式のみから推測するしかなくなる。
この場合の変異点は人間が出すゴーサインそのものと、その小さな刺激に押し出されて自ずと進行していくプロセスの中で起こる確率的な事象の、二種類あるのかもしれない。賽が投げられた開始点と、その先に生じる分岐の数々。


もしこのアームの中で上記のような何らかの特異点が生じ、故障が見当たらないのに活動を突然停止したり、未知の所作を始めるようなことがあるとしたら。透明な隔てがなければ、展示スペースの境界をじわりと超えて血の手は広がっていくだろう。予定調和的な動きを脱することで、この作品は人間にとって安全な見世物や神話的苦行の表象装置であることをやめ、得体の知れないブラックボックスの可能性を孕むことになる。そのとき鑑賞者にとって、忍び寄ってくる赤黒い液体は一層不気味で、しかも親密なものに感じられるに違いない。