東日本大震災と僕の10年
東日本大震災が発生したとき、僕は小学二年生だった。
当時暮らしていた祖父母の家で妹とテレビを見ていたら、緊急地震速報が鳴った。産毛が逆立つようなあの音に、どきりとした次の瞬間、ぐらりと大きく地面が、家が揺れた。
地震、という言葉が脳裏をちらつくより速く、僕は反射的に幼かった妹をぬいぐるみと共に机の下に押し込んだ。
それから揺れが収まるまでの間、何をしていたのかはあまり覚えていない。
記憶にあるのは、永遠に続くように思えたあの揺れと、破裂しそうなほど心臓の音がうるさかったことだけだった。
住んでいた地域は津波の心配はなく、倒壊もほとんどなかったエリアだったが、街のほぼ全域で停電が発生した。
東北の冬はとにかく寒い。暖房なしでは到底生きていけない。納屋から使っていなかった灯油ストーブを全て引っ張り出し、少しだけ余っていた灯油を使ってその晩は暖を取った。
灯油やガソリン、食べ物を手に入れるのも一苦労だった。
スーパーからは物が消え、がらんとした棚があるばかりだった。
ほとんどの品に個数制限が設けられていたため、停電が解消された後もしばらくは満足な量は手に入らず、食料調達に妹を連れて祖母と共にスーパーへ行った。
特に精肉コーナーには何もなかったことを覚えている。当時早めの育ち盛りで肉好きな僕は愕然とした。食事はお歳暮でもらった蕎麦とカップ麺ばかりだったが、文句を言ってはいけないこともなんとなく理解していた。
ガソリンスタンドには連日、大渋滞ができた。
家族はその話を聞いて、ガソリンスタンドへの移動分と大渋滞を待つ間のガソリンの減りを気にして、車をしばらく使わないことにしていた。
田舎では車なしで出来ることは少ない。
日中することのなかった僕はラジオに電気を貯める為、30分に一度はハンドルを回し、暇をつぶした。携帯の電池を温存するために情報収集はラジオが基本であり、祖父はそういったものを多く持っていた。そのうちのひとつを与えられた僕は、ノイズの混じるラジオと時間を過ごした。
当時はまだワンセグ放送が盛んで、映像でニュースを見るため開いた母の携帯で、僕は初めて津波の映像を見た。家を飲み込む波がどうしても僕には現実のものとは思えなかった。
怖かった。
それは母も同じだったようで、それ以来携帯を開かなくなった。
幸い、一週間程度(記憶が定かではない)で電気は復旧し、休校になっていた学校も再開した。
電話がつながるようになって、しばらくの間、津波の映像を見た親戚からの電話が鳴り止まなかったと聞いている。地震発生直後はほとんど電話が繋がらなかったため、安否確認が出来なかったことが彼らのこともまた、不安にさせたようだった。
***
小学三年生の夏、福島から避難してきた子が僕のクラスにやってきた。
運動神経の良い、面白い子だった。転校初日の挨拶で三点倒立します! と言って、ちゃんと一分近くその体勢を維持して笑いを取るような子。クラスにもすぐ馴染み、ムードメーカーのようなポジションを得ていた。
仲の良かった方だと思う。鬼ごっこをすれば(足が遅いのもあって)、必ずターゲットにされたし、僕の、クラスから程よく浮いた感じを気に入ってもらっていたような気もする。
一年と少しが経って、その子は再び転校していった。お別れ会での、住み慣れ始めた街を離れる不安よりも、少し嬉しそうな顔がよく記憶に残っている。
震災がなければ会うこともなかったはずだけど、会えてよかったと僕は勝手に思ってる。どうか今も元気に、三点倒立をしていてくれたらいいな。
***
震災から一年がすぎた頃。祖父と父に連れられ、津波の被害を受けた、父の故郷へ行った。
父の生まれ育った街は、瓦礫が至る所に積まれていて、ごっそりと街が無くなっていた。残されたのは家の基礎ばかりだった。
僕の知っている父の友人たちは幸い無事だったが、仕事場や工場が流されてしまった人もいたと聞いている。
それら全てを海が攫っていった。
それでも僕には、海が綺麗なものに見えた。
恐ろしかった。
震災前はキャンプや海水浴によく行っていたが、津波に巻き込まれ、海や施設が封鎖や営業停止に追い込まれてからは父の生まれ育った街とも疎遠になった。
高校三年生になった僕は、入試でスケッチの提出を課された。課題は、事前に提示される課題文に沿った場所を探し、出来るだけ正確に描くというものだった。
美術と無縁の人生を送ってきた僕にとって、その課題は容易なものではなかったけど、やらなければ合格できないので必死になって考え、指定の枚数を描いた。
その中の一枚の題材として、僕は父の生まれ育った街を選んだ。なんとなく今行かないともうしばらく行かないだろうな、という予感がしていた。僕は父に連れってもらえるよう頼み込み、父はそれを快諾してくれた。
以前は開通していなかった道路を通り、子供の頃はもっと時間のかかる遠い場所だと思っていた街へと車は走っていく。そうして僕は十年ぶりに父の生まれ育った街を訪れた。
街に瓦礫はなく、家々や建物も多く立ち並び、活気があった。車で市内を走ったときの風は心地良かった。街を歩けば、いつも父の言葉尻に現れる方言がしきりに聴こえてそれも面白かった。
僕は人の強さを知った。
***
来月、僕は大学進学のため地元を離れる。
十年はあっという間だった。
震災の日のことだって、部分的ではあるが鮮明に思い出せる。
僕は津波の被害に遭ったわけではないし、ただほんの少しの期間停電を経験しただけ。
地元のことは今でも苦手だけど、僕という人間のバックグラウンドにこの地があることは変えようのない事実だから。
僕なんかが震災のことを語るのはおこがましいかもしれないけど。でも、東日本大震災を少なからず経験した者として、風化を防ぐ一助になれたらと思う。
当時八歳だった僕にはあのとき、何が起こっていて、どうしてそうなったのか、長い間分からなかった。それでも歳を重ねるごとに、津波がどういった過程で発生するのか、原子力発電がどういう仕組みで動いているのか、昔よりはわかるようになったと思う。
人間は、脈々と受け継がれてきた歴史から学ぶことができる。
忘れないでいること。そして、何があったのか知ること。
それらを胸に刻んで、この先も生きていけたらいいなと強く思う。
***
感傷的な文章になってしまい、申し訳ありません。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
この先も、あなたに光あることを願って。
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