言葉のある世界

 先日ある方が自宅で亡くなった。二週間ぐらい発見されなかったらしい。異変を感じた近所の人に見つけられたときは遺体に傷みが進行していて、通夜も葬儀もせず、そのまま火葬されたということだった。
 こういうことを聞くと、すぐ孤独死という考えが浮かぶが、そうではなかったかもしれない。言葉のない世界で宇宙空間にぽんと放り出されたように生きていたのか、それとも豊富な言葉にとり囲まれて悠々自適の一人暮らしを送っていたのか。両者は全然違うが、今となってはどちらだったか判らないし、さらに悪いことには、実はどちらでも同じかもしれない。収入が少なく、たとえ300円のコーヒーでも毎日飲むとなると金がかかるので、一時の会話程度のことを求めて喫茶店へは行かないし、同じ理由で外食もほとんどしないが、その金を本や映画に回し、それで結構ものすごく幸せに自足している。そういう人でも、他人と毎日会う環境がなければ、家で脳梗塞や心筋梗塞などで倒れ、そのまま長期間誰にも発見されないことがありうる。

 ヤクルトレディが週一で来たって遅いのだ。脳梗塞などは発症しても時間との闘いで、今は一定時間以内に投与すれば後遺症もまったくなく治癒するようないい薬があるらしいが、丸二日も放置されればおそらくダメだろう。丸一日でもダメかもしれない。24時間、誰とも会わない日が一日でもある人は、倒れた日がその一日に偶然あたってしまうと、死ぬか、一生消えない障害を負うことになる。結婚や家族、毎日の通勤などは、それを防ぐための相互監視システムの面があった。しかしそのライフスタイルを選ばない人が増えている現在、別の手を考えないといけない。

 店をやっている人であれば、定休日でもないのにシャッターが閉まりっぱなしだと、近所の人がおかしいと思って見に来てくれるかもしれない。毎日時間を決めて動画配信しているYouTuberにもそういう意図があるかもしれない。これらは自分からシグナルを発する方向。逆に毎朝ラジオ体操している企業が一般にも場を開放すれば、参加する人が出てきて、あいさつ程度のつながりも生まれ(ここでいう独居者はつながりを求めているわけではないので、あくまでもあいさつ程度だ。シェアハウス崩壊の法則によると水回りの清潔性と執心的なつながり欲にはどんなに注意してもしすぎることはないらしい)、あの人今日は来てないね、おかしいな、ということになって救命されるかもしれない。寺院の勤行にもまさにそういう役割が求められるかもしれない。毎日の本堂開放、誰でも自由に参拝できるという相互扶助システム。これらはシグナルを発する場に赴いて力を利用する方向。

 誰もがApple WatchのCellularモデルと大手通信キャリアを使えるほどの大富豪ではないし、そのApple Watchも脳梗塞を検知して勝手に119番するものなのかどうか私は知らない。確かに将来的にはそういうシステムは整備されざるを得ないだろう。しかし今ではない。今どうするか。毎日、同じ時刻になったら119番に電話をかけて、この時刻に電話がなければ私は倒れたということですからどこどこの住所まで救急車を手配してください、などという大迷惑なことはできないが(そんな奴が百人単位であらわれたら大変だ)、逆ならできる。一日一回、特定の時刻になると自動で119番に電話をかけ、あらかじめ録音していた音声を再生する装置をセットしておく。生きていればその装置の発動を止めることができる。止められなければ119番されて救命される。昔の刑事コロンボに出てきたような電話機に接続するテープレコーダーのような機械は今ではメルカリやヤフオクでもなかなか見かけないが、Raspberry Piを使ってそういうハードを自作することはできないか。私にはできないが、世の中には電話ハッカーみたいな人が多数いて、情報を発信している。私はとりあえず再生される音声の文面を考えよう。「この電話は○歳独居男性が倒れたことを検知して自動で発信されました。録音音声により状況をお伝えします。△△疾患の既往歴あり。この電話が発信されたということは、あらかじめ発信するようセットされていた装置を止めることができないほど、当該男性が衰弱の状態にあることを意味します。すぐ救急車を回してください。住所は○○○-×××」 もうちょっと判りやすさと喫緊度の伝わりやすさに配慮して練り上げなければならないが。

 孤独状態に起因する事故死・病死をITの力で回避する試みには孤独状態そのものを許容しているという点への非難が付き纏う。しかしそれは3Dプリンターによる完全ジャストフィットサイズのフルオーダーコンドームがこの少子化の時代の危機を倍加するといったような話に過ぎない。安心な避妊はできたほうがいいに決まっているし、たとえ衰退国家として少しでも多く子供を産んでほしくても、それを避妊の失敗または不快に期待するなど論外だ。ITの力での死の回避と、孤独状態の解消とは、別個に論じられなければならない。優先すべきは死の回避のほうだろう。だからこの文章も最初は場の創造のほうを念頭に置いて書き始められたが、最終的に具体的な技術のほうへ話柄が落ちてしまった。

 海の言葉、山の言葉、踊りの言葉に物質の言葉。言葉なら何でもいい。世界を分節して了解しながら生きていくのと、言葉のまったくない世界へ放り出されて生きていくのと。後者だと人は耐えられない。孤独に耐えられないのではない。言葉のない狂気の世界。
 それが生きる覇気になるのなら、争い、誹謗、猥褻、大いに結構。あなたはいい歳をしてSNSで何をやっているんだなどと言うまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?