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vol.009 約束の水平線

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ここは沖縄本島最南端の集落、喜屋武(きゃん)。広大な農地の先は一面の海。石積みの外壁や古民家が多く残り、まさにこの島の原風景を描いたような地域だ。

そんな村内に一軒、一際モダンな建物が佇んでいる。

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「atelier sou」

群馬県出身の仲間秀子さんが営む、金細工(くがにぜーく)アクセサリーを主に扱うアトリエだ。

扉を開ければ、ドライフラワーの甘い香りと、年代物のスピーカーから流れるやわらかな音響に包まれる。

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時を重ねたアンティークショーケースの中で、美しく並ぶピアスやリング、バングルにブローチ。

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そんな店内奥手が工房で、仲間さんは真鍮やシルバーを用いた装身具を製作している。

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三児の母でもある仲間さん。平日は製作と家事に注力し、週末だけアトリエを開放する。目的が無ければ立ち寄る事が無いであろう南端の集落で、あくまで自身のペースで活動するsou。ひとたびイベントに出店すれば、ブースには多くのファンが詰め掛ける。

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数年前、那覇の百貨店で行われていた催事で、僕は初めてsouの作品に出会い、大切な日の贈り物としてバングルを購入した。

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多くの出店者が集い、数えきれないほどのアクセサリーが集う会場。souの作品は慎ましくシンプルなものばかりなのに、なぜか吸い込まれるように手に取っていた。

あの「うまく説明出来ないけど、なんかグッとくる」ものはどんな手から創り出されているのだろうか。

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今でこそ多くのファンを持ち、イベントでも引っ張りだこの仲間さんだが、前職は美容師。そして数年前までは、洋服をつくりながらニンジンや島らっきょうを育てていた。

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「幼稚園頃から、自分の身なりや他人の格好への関心が強い子供だった」という仲間さん。「お店には理想の服が売ってない」と、暇さえあれば洋服のイラストを描いていた幼少期。長くデザイナーを夢見ていたが、親のアドバイスを受け入れ、高校卒業後は美容師の世界へ進んだ。

休日全てを研究に捧げるほど没頭していた、埼玉での美容師時代だったが、現在のご主人と職場で出会い、結婚・妊娠を機に退職。長男嫁として、ご主人の故郷・喜屋武へ移り住む事になったのだ。

「沖縄の長男嫁は大変」と、よく言われる。仏壇ごとが多く、親戚付き合いも頻繁だからだろう。中でも喜屋武の所在する糸満市は、旧暦文化を重んじ、独自の伝統行事が色濃く残る地域だ。

「さぞ苦労しているでしょう、なんてよく言われますけど、まったくです」と、あっけらかんと笑う。

実は仲間さん、ご主人の父親と大の仲良し。沖縄へ移住前はご主人を埼玉へ置きざりに、幼い長女を連れて何度もお義父さんに会いに訪れていたほどだ。

移住後は、毎日のように2人で晩酌を交わし、「いつか自分のお店を持ちたい」と夢を打ち明けていた。

「お店には大きな窓があって、毎日水平線を眺められたら最高だね」。海をこよなく愛するお義父さんは、自分ごととして応援してくれた。

絶好の土地に巡り合った際も、お義父さんは力になってくれた。海を一望できるそのロケーションを大変気に入り、「お店を始めるのは先でもいいから、まずは押さえてしまいなさい」と、土地購入にかかる資金を折半してくれたのだ。

幼少期の「デザイナーになりたい」という想いに立ち返り、夢は動き出していた。3人の子育てをする中で湧き上がる「もっとこんな服があれば」のイメージから、マタニティやキッズ衣料を仕立て、イベント出店や雑貨店への委託販売を始めた。

購入した土地は、ハルサー(畑人)であるお義父さんとご主人が農地として使った。仲間さんは子育ての合間に服を作りつつ、農作物の配達やネット出品なども手伝った。

そんな中、お義父さんの癌が発覚。闘病の末、64歳の若さでこの世を去った。

そして同年、実の父も同じく癌で亡くし、「しばらく放心状態になった」。と同時に、これまでご主人とお義父さんを中心に支えてきた農業収入にも大きな変化が生じる。家計の事も考え「早く私が独立しなければ」と思うようになっていた。

そんなある時、行きつけのセレクトショップで運命的な出会いをする。それは県内を拠点に活動されている「enn」さんのアクセサリーだ。

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民族の石やヴィンテージビーズなどが組み合わされた、色鮮やかなアクセサリーたち。子育てを始めてからはアクセサリーを身に着けなくなり、店で手にすることも少なくなっていた中、その存在感の釘付けとなった。

「着けてみると、それが全然似合わないの。でも、着ける人によって見え方が全く変わる不思議なアクセサリーだった。当時30代の私には早すぎたんだと思う。これが似合う大人になりたいと思った」

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その縁はさらに繋がり、ennのつくり手である島袋さんご本人と出会う事ができた。「大人だからこんなのを着てこんな風に振る舞わなきゃ、みたいな固定観念を持たない、素敵な70代の女性。この方だからあのアクセサリーがつくれるんだ。私もこんな人になりたいと強く思った」

そんなennさんのアクセサリーと仲間さんの洋服で、合同展示会を開催するなど交流を深める中、「あなたもアクセサリーつくってみなさいよ」と島袋さんから一言。

それまでは服をつくる事しか頭になかった仲間さん。初めはピンと来なかったが、もともと経年変化する金属や古い小物が好きだった事もあり、いつからかアンティークパーツなどを集め、独自に手を加えてアクセサリーもつくるようになっていた。作品に手応えを感じられるようになってきた頃、県内のイベントにアクセサリー作家として出店した。

クリスマス前の購買意欲も高まる時期、周りの出店者の物は次々と売れていく中、仲間さんのアクセサリーは、ついに1つも売れなかった。

その悔しい出来事は大きな壁として立ち塞がったのだが、「壁は乗り越えるためにある」と、アクセサリーの道へ進む事を決意。沖縄県工芸振興センター・彫金コースの研修生として基礎をみっちり学び、卒業した年から「sou」として活動をスタートした。

「よく器用ですねと言われるんですが、むしろ逆だと思っています。美容師時代からそうですが、失敗して壁にぶつかって、それを改善するという生き方しか出来ませんでした。アクセサリーもそう。特別な技術を持っているわけでも無ければ、彫金歴が特に長いわけでもありません。

そんな中で、どうしたらこの人を喜ばせられるか、どうしたら日常の一部になれるか、どうしたら私から買いたいと思ってもらえるか、それだけを考えています」

「仕事=生きる事」だと言う仲間さん。休日もカフェ巡りをする事などはほぼ無く、家事以外の時間は工房にこもり、製作をする。

「私は今やりたい事をやって、好きな物や素敵な人たちに囲まれて、幸せです。こんな姿を子供たちにも見てほしいし、大人の世界は素敵だなって思ってほしい」

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「芸術性や伝統に偏り過ぎて、日常から離れてしまわないように」。仲間さんは、あくまでも普段使いのアクセサリーにこだわる。

例えば、琉球舞踊や儀式で着けられる事の多い「房指輪」。伝統のものよりも小ぶりなサイズで提案したり、縁起物のモチーフにツバメを取り入れたり、ブローチやピアスに派生させるなど、伝統的な型をそのまま再現をするのではなく、現代の日常に取り入れられる装身具として昇華させている。

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「このアクセサリーを付けたらこの服は着れないな、なんてならないよう、引き算を重ね、私の作品は年々削ぎ落とされています。デザインがシンプルな分、素材選びは絶対。洋服もそうですが、まず確かな素材と出会う事が大事だと思っています」

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souを立ち上げてから3年が経ち、ついにアトリエが完成した。

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開業日は、お義父さんの誕生日に出来るだけ近い吉日の9月13日。店内には水平線を臨む大きな窓を取り付けた。

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「きっと父もこの景色を見ています」。肩身の腕時計はいつも手元にある。

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「あれから常に生死を意識しています。私は身を飾る物が好き。そしてそれを提案して喜んでもらう事が好き。極端な事を言えば、自分がつくった物でなくてもいいんです。私が70歳になった時、今と同じように製作できるとは思いません。だからこれから先は、世界中の素晴らしいものを紹介できる空間も準備中なんです」

アトリエの隣には、新たなギャラリースペースの建築が進んでいる。

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生きること
死ぬこと
自分自身
素材

これらと真摯に向き合い自問自答しながら、

「装い」を「想い」
人と暮らしに「添い」
「創る」

souのアクセサリーが、どこまでも繊細で慎ましく
どこまでも力強くて確かな理由が、少し分かった気がする。

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【萩原 悠 プロフィール】
1984年生まれ、兵庫出身。京都で暮らした学生時代、バックパッカーとしてインドやネパール・東南アジアを巡る中、訪れた宮古島でその魅力に奪われ、沖縄文化にまつわる卒業論文を制作。一度は企業に就職するも、沖縄へのおもいを断ち切れず、2015年に本島浦添市に「Proots」を開業。県内つくり手によるよるモノを通して、この島の魅力を発信している。


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