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vol.4 境界線は染め替えて

沖縄戦の激戦地として知られる嘉数高台のてっぺんにたどり着いた。目前にある宜野湾の住宅街はある地点から途切れ、その向こう側はアメリカだ。

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遠方に広がる普天間基地からこちらを向くオスプレイと対峙する。知る限りの悲しい歴史とやり切れない現状が迫り、息が詰まる。その風景を見て、ある紅型(びんがた)作品を思い出した。

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中央で翼を広げるのは「ミサゴ」。英語で「Osprey(オスプレイ)」と呼ばれる鳥だ。ミサゴの下に並ぶキャラクターは、沖縄県民を表わしている。

敗戦後、米軍から配られた菓子の象徴であるチョコレートを擬人化し、アメリカナイズされた民衆を風刺しているのだ。そして、チョコレートに刻まれたアルファベットを並び替えると、「welcome osprey」と読める。

これは染色家・知花幸修(ちばな ゆきなが)さんによる作品。

幸修さんが所属する紅型工房「染千花」は嘉数高台のふもとにあり、彼もまた、幼い頃から戦闘機を見上げて育った一人だ。

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「紅型」とは沖縄を代表する染色技法の一つ。主に自然風景や生き物などをモチーフにした型紙を使い、色とりどりの染料で鮮やかに染める伝統工芸である。その歴史は古く、14〜15世紀頃に誕生し、琉球王朝の王族と共に繁栄してきたと言われている。

そんな背景もあってか、紅型とは「伝統に乗っ取った高貴なもの」という印象を持っていた。だからこそ、幸修さんのアニメのようなキャラクターが登場したり、社会風刺のようなメッセージ性を含んだ作品を見た時の衝撃は大きかった。

思い返せば、幸修さんに出会ったのは二年ほど前のこと。

行きつけの理容室のマスターから、「僕が担当するお客さんが、面白い紅型をつくっていますよ」と教えてもらったのがきっかけだ。気になって調べてみると、紅型のトートバッグに目がとまった。

古典的な紅型と合わせて染められている、アメリカンタトゥーのようなデザインは、「ハジチ(針突)」という沖縄の入墨文化を表わしていた。

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取り上げる題材のユニークさと、伝統工芸とは思えない前衛的な作風に引き込まれ、すぐに工房へ会いに行った。以来交流が始まり、トートバックの取り扱いだけでなく、県内初の個展を店舗で開催させてもらった。

沖縄生まれの様々な手仕事を扱う小売店を始めて5年ほど経つが、やちむん(焼き物)や琉球ガラスなどの工芸に比べ、紅型の認知度はかなり低いように感じている。

県外の方に商品説明をする際に、「紅型」という言葉自体、通じない事も多い。

そんな中でもハジチトートバックは、店頭で手にされる回数や、県外からの問い合せ件数がトップクラスに多いのだ。希少な琉球藍を用いて一点ずつ染め上げるという特性から、決して安価なバッグではないが、若い年齢層からも支持が厚い。

そんな幸修さんの紅型は、世界規模で展開するブランドの目にも留まるようになり、昨年は「X-LARGE」、今年は「オニツカタイガー」と、立て続けにコラボアイテムを発表している。

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また、県内各地で紅型の手法を取り入れた壁画アートを披露したり、新潟県の音楽祭「フジロックフェスティバル」で作品を展示するなど、染色家の枠を飛び越えて活躍している。

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そんな「目立つ」活動は、ともすれば伝統工芸のタブーだと揶揄されかねない。実際にそんな声が本人の耳に入ってきた事もあるそうだ。

しかし幸修さんは、ゆったり落ち着いた口調でこう言うのだ。

「今を生きる人たちに届かなければ意味がない。紅型を通り過ぎようとする人を振り向かせたい。そして紅型をジャパニーズスタンダードにしたいんです」。

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数年前、フランスのルーブル美術館に作品を出展したときのこと。 

母親である知花千賀子さんが創業した紅型工房として、引いては沖縄が誇る伝統工芸の代表として、意気込んで出展したものの、言葉や価値観が通じない環境では、技法や伝統、歴史うんぬんが汲み取られる事はなく「つくり上げた作品が単なる紙切れになったようで、全く届いた気がしなかった」。

これを機に「沖縄の伝統工芸」という枠で自身を縛る事をやめた。

「紅型が持つ色彩や様式美に、世界を魅了するポテンシャルがある事は間違いありません。でも、それが届くか届かないかは、つくり手の創意工夫にかかっています」。

「誰もが反射的に見てしまうもの」という観点から「パンチラ紅型」を発案したり、日本が世界に誇るアニメカルチャーとの融合を目指し、自ら東京に出向いて手塚治虫プロの公認を獲得し、手塚キャラの紅型を制作するなど、持ち前の突き抜けたスタイルは、より強固なものとなった。

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一見個性的で「攻めた」作風を支えるのは、いつでも紅型を「守りたい」という責任感だ。

「僕の作品に個性はありません。今の人たちを振り向かせられそうな要素を寄せ集めただけ。言わばコラージュ。一人でも多くの方に紅型に興味を持ってもらう事が目標です」。

かつて一部の特権階級に守られていた紅型は、琉球王朝の王制解体と共に衰退の一途をたどった。この歴史を知ると、幸修さんの言葉は説得力を増す。

「紅型の事だけではありません。基地問題も同じです。沖縄だけのものにしてはいけない。日本、いや、世界全体で共有したいのです」

オスプレイが飛び立つ町で、今日も静かに筆は動く。

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【萩原 悠 プロフィール】
1984年生まれ、兵庫出身。京都で暮らした学生時代、バックパッカーとしてインドやネパール・東南アジアを巡る中、訪れた宮古島でその魅力に奪われ、沖縄文化にまつわる卒業論文を制作。一度は企業に就職するも、沖縄へのおもいを断ち切れず、2015年に本島浦添市に「Proots」を開業。県内つくり手によるよるモノを通して、この島の魅力を発信している。


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