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vol.005 葉を編む手、世を照らして

この島が「沖縄」になる、はるか昔の物語。小さく名もなき島は、浮き草のごとく海を漂流していた。そこに降りたったアマミキヨという神がアダンを植え、漂う島を海底に根付かせ、琉球国は生まれたという。

そんな神話、「琉球神道記」にも登場する「アダン(阿檀)」は、沖縄の風景に欠かせない植物である。トゲのある葉とパイナップルのような果実、ガジュマルのように太く強い根が特徴だ。

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沖縄の人は古くから、アダンを生活に取り入れてきた。可食部が少なく食用には向かないものの、その葉や幹を利用して、帽子や鞄・草履に座布団など、あらゆる日用品を作った。それは、泡盛やサトウキビに次ぐほど大きな市場だったそうな。

ところが沖縄戦による産業の停滞、その後の海外製品の流入などにより、アダンの民芸は暮らしから消えたのだ。当時の編み手は既におらず、その原風景を知るのは、一部の高齢者の方のみである。

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沖縄文化に関わる店を営む僕もまた、アダンの民芸品は資料で見たことがある程度で、ほとんど知識が無かった。

そんな3年前のある日、アダンで編まれた草履を履いた女性が来店した。古典的な手仕事であるにも関わらず、新しさすら感じさせる履きこなしと、その独特な佇まいに目を奪われた。

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訊くとその方は「amateras」という名で活動されているアダンの編み手、佐藤絵里奈さん。あの美しい手仕事の背景を学ぶべく、今回は製作現場の南城市を尋ねた。

指定の場所で再会を果たした後、世間話をしながら歩く絵里奈さんのにこやかな表情はふと真顔になり、突然その場に膝をついた。 

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目前には「テダ御川(てだうっかー)」と彫られた石碑がある。ここは太陽神が降臨したと伝えられる聖地で、アダン収穫前は必ずここに手を合わせるそうだ。

海風は凪ぎ、静かな祈りの時間が続いた。

すと立ち上がった絵里奈さんは厚い革の手袋をはめ、鎌を手にした。慣れた手つきでアダンを刈り始める。

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一定量採るとその場に座り、今度は小さな刃物で裏と側面にあるトゲをそぎ取る。その葉をさらに1㎝幅に整える。一足の草履を編むには、およそ50枚の葉が必要なんだとか。

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この光景を不思議そうに見て通り過ぎる人々には、笑顔で頭を下げた。
しばらく作業を繰り返し下準備を終えると、「では次の場所へ行きましょう」と歩き始めた。

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そこから少し車を走らせ、隣町の八重瀬町に着いた。案内されたのは、古民家を改装した就労支援施設「ワークリンクサザン」。絵里奈さんはここで、主に精神疾患を抱える方々へアダン葉草履のつくり方を伝えている。

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伝え始めた頃は「なぜこんな事をしているのか分からない」「やって意味があるのか」などとこぼしていた利用者の方々も、いつしかその魅力に取りつかれ、今では葉の収穫から仕立て、手編みに至る全行程を、補助無しで出来るようになった。

「当初はほとんど口を開こうとしなかった頑固な方も、積極的に挨拶や質問をしてくれるようになった。日に日に表情が柔らかくなって行くのが、何より嬉しかった」と。

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こちらでつくられ、絵里奈さんの太鼓判をもらった草履は希望者に販売されているのだが、僕が訪問した際も多くの受注を受けており、注文から3~4ヶ月待ちの状態だった。

「民芸品は使ってなんぼ」と話す絵里奈さんは、今の時代に使ってもらえる工夫を絶やさない。好みに応じて鼻緒の生地を変えたり、チャームを取り付けて可愛らしさを表現したり。

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福岡出身の絵里奈さんは、美容師経験を経て東京の美容会社に勤務していた。

海外旅行が好きで、ハワイ島のプナ地区を訪れた際に「オフグリッド」と呼ばれる生き方に出会う。電力などあらゆるエネルギーを自給し、自然に寄り添いながら暮らすライフスタイルの事だが、そんな「不便な」暮らしを体感する中で、自然のリズムに合わせて生きる事の「豊かさ」に気が付いたと言う。

東京に戻ってからというもの、これまで身を包んでいたファストファッションは、環境へ配慮されたオーガニックコットンやヘンプ素材に移り変わり、ついには市販の竹草履をリメイクして履くようになった。

ハワイでのオフグリッド体験以来、自然を近くに感じる暮らしへの憧れが消えることはなく、海外移住も念頭に候補の沖縄を訪れた際、南城市の風景に「ここだ!」と直感した。

旦那さんを説得して移住が決まり、沖縄生活を始めた5年前のある日、「それはアダンの草履ね?」と声をかけられた。趣味でリメイクしていた竹草履が、地元のおじいには懐かしいアダン葉草履に映ったのだ。

そこで「アダン」を知った絵里奈さんは、アダン葉の民芸品について調べ始めた。

石垣島にアダン葉草履の編み手がいるという情報を掴み、その方のもとで基礎を学んだ。それから今日まで約4年、未だに試行錯誤の日々だと言う。

「自分が本当に気持ち良いと感じられるものを身に着けていたい」と編み始めた草履は、身近な友人たちから口コミで広まり、「つくってほしい」と依頼が舞い込むようになった。

「畳の上に裸足を着けているような素材の気持ちよさ」や「ほどよく伝わる地面の凹凸が足裏を刺激し、健康に繋がる」といったアダン葉草履の魅力は、確実に伝わり始めたのだ。

また、地元の祭りやイベントで草履編みの実演をする機会も増え、その都度「懐かしいねえ」「伝えてくれてありがとうね」と声を掛けられた。

「自分のため」のはずだった草履編みが、人に喜ばれ、感謝されるようになり、いつしか「この文化をきちんと伝えていきたい」と思うようになっていた。

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しかしワークショップや体験会は、文化を知ってもらう機会にはなるものの、編み手の誕生には繋がらず、「どうすれば伝承していけるのか」と頭を悩ませていた。

葉の選別、ケガのリスクを伴うトゲの下処理、陰干しとなめし作業を数週間繰り返す準備期間に加えて、編む技術が必要とされる。ノウハウはもちろん、向き合う時間や場所も必要な為、長く編み手に定着するのは容易でないのだ。

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そんな時、自然と触れ合う作業を自立支援に取り入れたい、と考えていたワークリンクサザンの所長・崎浜夏樹さんと出会あった。そこから約1年を掛けて職員や利用者の方に技術を伝え、継続的につくれる体制を構築できたのだ。

これからは、より多くの人にアダン葉草履の良さを知ってもらうべく、技術の向上と生産を続けていきたいそうだ。しかし一方で、「無理に履いてほしいとか、流行ってほしいとかは望まない」と言う。

刈ったアダン葉が再生して元の状態に戻るまでには、約半年かかる。
「自然のサイクルがまず最優先です。採らせて頂く限りある資源への敬意があれば、大量生産はできないし、適正価格を割ることも出来ない。そして、つくり手が“楽しい!”と感じられるリズムも崩してはいけない」

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「こうしたモノづくりを通して、自然の循環を意識するきっかけになれば、それだけで良いんです。全てが繋がっているんだと実感できれば、きっと人は、自分にも地球にも優しくなれる。私はアダンからそれを学びました」と。

遠い昔、どこかの誰かが残してくれた素晴らしい文化を次に繋げる「数珠の一粒」でありたい、と話すその姿は慎ましくも、確かな光に見えた。

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【萩原 悠 プロフィール】
1984年生まれ、兵庫出身。京都で暮らした学生時代、バックパッカーとしてインドやネパール・東南アジアを巡る中、訪れた宮古島でその魅力に奪われ、沖縄文化にまつわる卒業論文を制作。一度は企業に就職するも、沖縄へのおもいを断ち切れず、2015年に本島浦添市に「Proots」を開業。県内つくり手によるよるモノを通して、この島の魅力を発信している。


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