死者のためになされるべき慰めについて

 機会に恵まれて、とある専門学校で授業をすることになった。専門学校は大学とはシステムも違えば環境も異なる。その学校では、授業の終わりに「起立、礼」という号令がかかる。はじめこそ、小学生や中学生のころを思い返して懐かしい気持ちになったものの、回を重ねるごとに変に恐縮してしまい、礼をされるときも落ち着かず、こちらも号令にあわせて立ち上がり、礼を返す。いつか慣れるのかもしれないが、慣れてしまうのも偉そうな感じがしてまた縮み上がる。

 とはいえ、小中学生のころは傲岸不遜もいいところで、そうした挨拶もばからしく思っていた。専門学校の学生の側も真剣に敬意を込めて礼をしている人のほうが少数派かもしれない。少なくとも過去の私にとっては、こうした行為は礼のための礼でしかなかった。逆に大学に入って以降は、敬意を抱く先生に対してであっても、起立して礼するなど仰々しいことなどしないものの、礼のようなことばをいくつか心に浮かべるようなことはあった。手を合わせなくとも「いただきます」と念じることはできるし、ネテロ会長に言わせれば「祈りとは心の所作」であり、手を合わせるという動作なしにでも百式観音の零を発動することができる。

 話が逸れてしまったが、要するに何かの儀礼をする際に、私たちはいつの間にか形式のほうを重視してしまう傾向がある。アリストテレスの形而上学的な思想においても、質料という、可能性でしかなく不安定なものを、形相 (form) が特定の形に纏め上げ、それによって現実化する。緩やかな心持ちで話せば、「儀礼の形式」は、私たちの心情という向きを持たない曖昧なものを束縛し、特定の方向へと向ける役割を担っていた。木材は木材のままでは役に立たず、特定の形にされることで椅子になり、机になる。形式は、私たちの感情を散逸させないようにする枠として働いていると言ってもいい。

 逆に言えば、私たちの感情が散逸さえしなければ、私たちは特定の儀式に臨む必要はない。先生に敬意を払うために起立して礼までする必要はないし、人を祝うために酒瓶の栓を開ける必要はない。死者を弔い慰めるために葬儀に参列する必要さえない。

 現実の世界での身近な死者のための葬儀に参列する必要はないと声高に叫ぶとひとでなし扱いされてしまいそうなので、ここでは私にとって馴染み深い死者の例を、文学から二つ取ろう。いずれも『失われた時を求めて』からではあるが(膨大な小説のなかで出典を探っていると大変なので、記憶を頼りに書くが、それゆえに正確ではないところが多々あるだろう。これは許してほしい)。

 一つ目は、語り手の「私」の祖母である。作中で祖母が亡くなってから、「祖母は死んだのだ」という喪失を「私」が味わうまでに時間的なギャップが存在する。「私」が祖母が死んだという「事実」を実感するのは、祖母の死後しばらく経ったあと、「私」がかつて祖母と訪れたバルベックのホテルで、靴紐をほどこうと身をかがめた瞬間であった。裏を返せば、それまでは、たとえ祖母の葬儀のときであれ、祖母の死を正面から受け止めていたわけではないということになる。理知によって「祖母が死んだ」と知ることと、感覚によって「祖母の死」を受け止めることとの差異と言えるかもしれない。葬儀における悲しみと死者を慰める感情とは、この「私」の例を見るかぎり、「全身全霊」のものであるとは限らない。また、「全身全霊」をもって死者との別れを受け止める瞬間は、葬儀の場で遺体を見送る場面であるとも限らない。親族と暮らした家の階段が軋む音であったり、あるいはその階段を降る際に漂ってくる石油ストーブの独特のにおいが、喪失した過去を蘇らせてくれることもある。そうした瞬間に死者との関わりを思い出し、死者を悼むことが、葬儀に参列し、死者を弔い慰めることに劣るものであるだろうか。

 もう一人の死者はベルゴットである。少年時代の「私」が憧れた作家であるが、小説の描く長いときの流れに沿って老衰してしまった彼は、展覧会でフェルメールの『デルフト眺望』に描かれている「黄色い壁」を見て、「私はこのように書くべきだったのだ」と言って、そのまま死んでゆく。文を書く人間が、フェルメールの絵、しかも「黄色い壁」というよく分からない部分(『デルフト眺望』に黄色い壁は描かれておらず、どこを指しているかも明らかになってはいなかった気がする)から、自分の芸術についての天啓を得て死んでいく、という感動的な場面であるが、それにもまして私たちにとって重要なのは、ベルゴットの死後、本屋の店先で彼の本が積み重ねられ、通夜をしているようである、というように書かれている部分である。本は、文字通りには死者を弔わないし慰めない。それでも、彼の芸術を祝福するかのように積み上げられた彼の本も、本を並べた書店員も、それを目の当たりにする通行人も、そして私たち読者も、彼の死を悼まずにはいられない。小説の世界と現実の世界というしかたで、世界を隔てていてもなお、ベルゴットの死後に本屋に積み上げられた彼の本のありさまを、プルーストの小説を読んで思い浮かべるそのたびごとに、私たちは彼を弔うことであろう。

 例は二つと言っていたがふと思い出したので追記しておくが、(また HUNTERxHUNTER の話だが、)クロロがウボォーギンを弔うために大暴れしたのもこうした例の一つに数え入れられるだろう。「大事なのは気持ちだ」というときわめて陳腐に響いて、書いたことすべてを今すぐ消したくなってしまう気持ちもあるが、とはいえそれに留まらない気もする。意志的に気持ちを高める必要はないからである。

 岡崎律子さんを知ったのはちょうど二十年前の今ごろで、とある声優のラジオを聴いていたときに彼女の訃報に接したときである。本当に見ず知らずの人間の死であったのに、なぜか無性に悲しくなった記憶がある。明日の五月五日が彼女の命日である。時を隔てていても、あるいは墓前でなくとも(「そこに私はいません」なのだから)、安いスピーカーから流れる彼女の楽曲を聴くことでさえ、等しく死者を想うことであると自らを勇気付けたい。

 余談。音楽作品は、トークンが消失するとそのタイプも消失してしまうという理解もあるらしい。ベルゴットの書いた本も、仮にそのコピーがすべて焼失したらその「作品そのもの」も無くなってしまうのだろうか。彼の死を悼んで積み上げられた本に夜通し光があてられていたように、その作品そのものも永遠であって欲しい。心情的に(も)、音楽作品も同様で、たとえすべてのトークンが消失してしまっても、一切演奏されることなく、録音されたものも決して再生されず、それどころかあらゆる録音が消失してしまった後でさえ、音楽作品そのものは存在し続けると考えるプラトン的な実在論を支持したい。

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