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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第二十八回〉

 先週はアルバイトが多いなか、出勤日以外は図書館に行き定本作業を進めた。その結果、現在出来上がったテキストデータは 

1932年 『朝鮮と建築』掲載
・「異常ナ可逆反應」
・「建築無限六面角体」
・1932年6月巻頭言
・1932年7月巻頭言
・1932年8月巻頭言
・1932年9月巻頭言
・1932年10月巻頭言
・1932年11月巻頭言
・1932年12月巻頭言

1933年『朝鮮と建築』掲載
・1933年5月巻頭言
・1933年6月巻頭言
・1933年7月巻頭言
・1933年8月巻頭言
・1933年10月巻頭言

である。
そして、
・1933年11月巻頭言(あと少し)
・1933年12月巻頭言(あと少し)

 という現状である。しかし最近、『朝鮮と建築』で使用していた活版印刷のフォントにより近いフォントを新たに見つけたため、その変更作業が必要になった。もう少し調べておけば、こんな二度手間はなかったのに…ということが多すぎる。しかしそのフォントの難点では現在使用しているフォントと違い、「旧字体、漢字対応の乏しさ」である。ひらがなやカタカナはかろうじて、活版印刷に近い状態で再現できるが、漢字になった途端〼が表示されて、適応の乏しさをあらわにする。平仮名の再現度は高いが、漢字や旧字体を多く使用した李箱のテキストにおいては、使い物にならないと言える。私が出した結論は、どちらかのテキストを使用するのではなく、適宜バランスを見ながら二つのフォントを併用していくフォントだ。漢字や旧字体の対応力は高いがひらがなの再現度は低い従来のフォント、そして新しく見つけた、ひらがなの再現度は高いが漢字をほとんど再現できないフォント、これらを、テキスト全体を見たときに違和感がないような状態で併用することにした。

 二人いるならダブルチェックをと思ったが、東京(作業協力者)が忙しそうなので私がフォントを併用させる作業を加えながら最終チェックをすることにした。大丈夫。日数が経てば眼がリセットされてほとんどダブルチェック状態になるはずだ。着実にやっていこう。

 良いこともあった。前回、国立中央図書館を訪れた際に、「1932年前半の影印版が製本作業に入ってから、だいぶ時間が経っているが、いつ終わるのか、現状はどういう状況なのか、大変申し訳ないが急いでいるからできれば早く製本作業を急いで欲しい」と急かしに急かした結果、2024年1月3日には製本作業が終わるとの知らせが入った。急かさなければ順当に作業が行われて何ヶ月も先に再会することになったことだろう。危ない。明日でちょうど1933年分の巻頭言のテキストデータ作成が終わるので、「鳥瞰図」「三次角設計図」のテキスト計測と、テキストデータ作成に戻りたいと思う。「鳥瞰図」の計測は終わっているが、計測は鮮度が命で、計測方法を変えるべき点があるかもしれないので。「再計測」のつもりで挑むことにする。どちらも、テキストがぎっちり詰まっているタイプなので難しい。

 こうやって、テキストデータ作成の進捗や明日の予定を立案しているときは、気持ちが楽だ。休めない休めないと以前書いたが、正直に書くと、休めないのではなく「休むと殺される」と思っているのだ。誰に殺されるのかは知らないが、とにかく殺される気がする。集中して作業を進められなかった日や、ダラダラと作業を進めてしまった日私の身に起こるのは罵詈雑言を含む長時間の説教がある。子供が悪戯をして叱られるように、つらい姿勢で自己否定を受ける自分を抱えて、風呂に入り、飯を食い、また作業したり勉強したりして、眠りにつく。次の日はまた図書館に行ったりバイトに行く。


 生活している中で見える文字は全てバラバラに見え、意味が文字の背後から襲いかかってくるなか、バラバラの文字をを繋ぎ合わせて文章にして読む。書かれた文字だけではない。聞こえる音や会話も、音が先か文字が先かわからないが、すべて自転しながら浮遊する文字になって目にみえる。そして浮遊する文字をつないでいると、意味がまたくる。慌てて文字をつないで、その文字列に意味をつないでいく。


 こうして、テキストを目にしていない間もテキストがみえるようになって、テキストの実物、つまり紙媒体のテキストが眼前にないと強烈な不安を覚えるようになった。韓国に来て調査を始めたときは、ちゃんと世界の中を自分の足で歩いて研究している感触があった。今は訳もなく涙が止まらないし、テキストも文字も自分も全部溶けて混ざり合っているからこそ、私が”かろうじて居る”ような感触。休んで、無理しないでと、人に対しては思えるのに、自分にその言葉がかけられるとテキストに対峙していない自分が何の価値もないように思えてきて、強迫観念は倍増する。でも誰も悪くない。笑えるくらい暗いなと思いつつ、マジ笑えねーなと思う。

 なんだか最近は、バイトでの会話も難しくなってきて、その度にだんだん情けなくなる。自分がここにいること自体恥ずかしくなってきて、会話が終わって相手が去ってから言葉の意味がわかったりする。そんなことばかりが続いていて、普通が羨ましいなあといつも、毎日、何回も思う。自分で選んだんでしょ、と言う人もいるだろう。そうだなあ。そうだよなあ。でも、そうじゃないんだけど、もう言葉にすればするほど目の前にみえる文字が増えていってつらいから、喋るのも面倒になる。普通の生活がいちばん眩しい。健康がいいなあ。次生まれてくることがあったら普通がいい。全部平凡でいいなあ。いつか韓国を去って、再びこの国立中央図書館までの道を歩いたとしたら、私は崩れ落ちてまた涙が止まらなくなるだろうなーと思いながら、今日はその道をスタスタと歩いて、図書館までたどり着いた。

 テキストにふれようとしているときだけが、ちゃんと生活できている感じがするから、こんなに生きるのがままならなくなっても、図書館に行く方がずっとマシ。友達が韓国に来る予定があるけど、うまく話せるかわからなくて怖い。おそらく誰も理解できない孤独を背負ってしまったけど、下ろし方もわからず、毎秒息切れしそうだがもう仕方ない。みんなそれぞれに孤独だよね。よしやろうやろう。明日のやることを書き出して、明日が来るのを待とう。テキストがない時間を耐えたら大丈夫。
 もしこの文章を読んだ人がいるとして、(重いな)と思うだろうけど、それは首に手がかかってるので当然のことである。カイジだって、のほほんと生活してなかったでしょう。でも心臓麻痺とか交通事故で死んだらどーしよどーしよ。むしろ太陽が爆発して地球を飲み込んで書物も人間の歴史も全部燃えてくれたら私も私の生涯も救われて最高。さっきまでインスタグラムで月が爆発するCGばかり作ってるアカウントを見つけて、ニコニコしながら見ていた。”いよいよ本番”って感じもしてきた。
 韓国に来てそろそろ三ヶ月。でもこれ、何処まで来てしまったんだ。

だ。だ。。だ。

だ。の、。とか、何点何ミリ?小数点第一位まで計測しないといけない。い。。や、があったら必ず計測計測。

こんな思考を延々と繰り返している。定規を取り出してみるも、定規の一ミリ目の目盛が消えてしまったみたい。きっと定規がずれて数値がずれないように定規の端をグッと抑えて計測してきた証拠です。あー削れちゃったのかあ、たった三ヶ月でも頑張ってきたんやねえと思って、妙に切ない。



二〇二四年、一月、二日、執筆、更新。

(さっきまでただの日記を書いていたことにより、定本作業日誌でも大暴れは免れた。ちなみに日記の方はテキストの世界から生まれた妖精が書いたような、変な文章が生まれたけど、内容が内容なので公開できないのが非常に悔やまれる。いつか何処かの誰かに読んでもらえたらいいなと思います。)

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