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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第一回〉


 定本作業———

 それは、異本や雑誌掲載原稿など複数のテキストを比較し、校合し、「これをテキストの標準である」と定め直す作業のこと。

 日本で著名な作家・夏目漱石の全集や文庫本は、数え切るのが面倒なほど出版されている。その中で、同じテキストを三、四冊読み比べるとすぐに気がつくことがある。所々表記や表現が違うはずだ。そういった、同じテキストであるのにも関わらず差異がある本を「異本」という。
 どうしたものか。人間はテキストを読んだ瞬間から忘却し始め、テキストすべてを一度に読み、捉えることも不可能な生き物だというのに、そのテキストでさえ確かなものではないのだ。そこで登場するのが「定本作業」だ。

 定本作業は、一言一句からはじまり、改行位置や空白など文字を”かたち的に”捉えながら、より原典に近いかたちを目指して校訂、改訂を進めていく。またその定本作業が後世での検証・批判されることを可能にするべく、改訂した場合はその過程も詳述する。
 つまり、「何が書かれていたか」だけでなく「何が、どういったかたちで書かれていたのか」が作業における重要な視点なのだ。そこに作業者の独創性などは必要ない。(書かれたかたちは、こうあったんじゃないか)という事実だけを見て、実証、伝達していく。


 私は朝鮮出身の作家・李箱(読み:イ・サン、1910-1937)のテキストを定本作業にかけ、その後翻訳して、それぞれを全集として出版しようとしている。
 李箱は朝鮮では有名な作家で、現在も韓国内の教科書に掲載されるほど国民的であると言えるが、その分出版された数々のテキストにも異本が多く、その版独自の表記や改行、目次構成を論理的かつ実証的に妥当性を示した説明はほとんどない。こうして異本が複数存在する事実は当然だと思う。原典をさがす作業は途方もないし、探したところであるとは限らない。何を原典とするかにも、人を納得させるだけの記述が必要だ。だから、ある程度スピード感と収録作品の多さ、読者に届けたいという情熱を携えて出版されたあろうそれら書籍に対して、排除願望は微塵もない。だが、また異本をもとにした異本が生まれ、原典”らしき”テキストからはかけ離れていくばかりの現状が進む未来のことを、明るいとも思わない。

 記録媒体とは、ある年数を経るごとに保存方法や継承方法を見直し、整理し、時には時代に合わせつつも原典に近いままでいられるかたちに変容させなければ、途絶えてしまう。語り継ぐものがいてこそ、記録媒体が残り続けるのだ。
 とは書いたものの、私にあるのは「李箱テキストの継承者である」という自覚ではなく、ただ、原典というものがどこかにあるなら見てみたい、残してみたい。ないなら私が完璧なものをつくりたい。という個人的欲求”のみ”だ。
 さあ私が存命しているうちに、どこまでできるか。

 これから投稿される定本作業日誌には、定本から翻訳作業にかけての些細な懸念点、不明点、要所での決断、作業行程、作業計画などを事細かに記録する所存だ。なかには、李箱のテキスト研究者や文学研究者が読めば(そんな初歩的なことはあの本に書いてあるよ)(それはもうすでに誰かが研究しているよ)と一刺しされる内容もあるだろうが、とにかく私が、『定本版 李箱全集』出版を目指し自力で行う定本作業の過程記録なので、無知で馬鹿な動きがあっても、それは”無知ながら何かをやり続けている”というコンテンツとして消化する。

 論文執筆のために、テキストを読みといていた作業部屋兼寝室の風景。壁に計三枚の模造紙、天井からはテキストを拡大印刷した紙を吊るして、寝ても覚めてもテキストが生活に馴染むように工夫した。

 ※この日誌は、文章の平易さと定本作業の詳述・記録を目的とする。よって口語的文章やパンチラインのある話題は視野に入れないものとする。定本作業の伝達行為は韓国語でも行わねばならないので、韓国語のみで書く日もあるかもしれないが不明。全て定本作業のなりゆきに従う。
 尚、定本作業の記録をなぜデジタルデータで管理するかというと、手書きと違って”個人の癖を極限までなくせる”からだ。


                         二〇二三、七、一九

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