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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五十八回〉

二〇二四年八月七日

 今日は朝から活動する。そのために昨日はよく休んだ。
天気は曇りで25度くらいだった。図書館に行って、韓国滞在中、最後の資料収集日となる日だ。

 資料は過不足なく収集できた。しかし「この書誌情報がもう少しあったらいいいな」「このテキストは印刷したけど、必要な時にいちいち書籍を探すのが面倒だから別途また印刷しよう」程度の軽い調査日だ。それと、2日にキム先生と面談したときにオススメされた本が、中古でも品切れ、新品でも絶版だったので図書館で全ページ印刷しようと目論んでいた。日本では著作権がまだ存在する書籍においては、”書籍の半分以上の頁を印刷してはいけない”と言われ、印刷申請書を書かねばならず、申請書にも総印刷頁数を書かねばならず、司書さんにも枚数を数えられたりするほど厳しいが、韓国国立中央図書館にはなぜか何も言われない。開架閉架にかかわらず印刷は利用者の思うままにでき、全頁印刷しても何も言われず、印刷物に触られたこともない。レファレンスサービスのクオリティは終わっているけど、このへんは優しい。
 11時半ごろに到着して、14時半にはすべての作業を終えた。絶版書籍は国立中央図書館のデジタルコレクションに所蔵されていたため、全てを印刷。すると400頁ほど印刷したことになる。紙は危険だ。よく切れるし、数が増すと鈍器になる。

 作業をするべく通い詰めていた10月〜3月頃まではまだまだ寒かった。私はダウンコートを着て、凍てつく空気の中、毎日毎日往復40分ほどかかる図書館までの道を歩いた。パソコンや書類、本を入れたカバンは重いので、凍結した歩道を歩くのは怖かった。体も思い通りに動かないだけでなく、心も完全に異常状態だった。(毎日図書館に行かなければならない)(一日に最低2、3は作業を終わらせなければ)と毎晩・毎朝自分を強迫するように声をかけてしまったせいか、そうなってしまった。元々精神疾患があるのに加えて、そんな強迫を繰り返していた。それにおばあちゃんが亡くなったこともまだまだ悲しいままだった(これは今もだが)。自分を追い詰めに追い詰めたおかげで資料収集、調査は早めに終わった。
 私はもう、その時の自分の苦しみを理解してあげられないが、毎日自分の首元にカッターナイフを突き立てながら調査をさせていたこと、それに体調や精神を壊しながらも応え続けていたこと、しかも手を抜かずきちんとファイリングしたり、申し送りのメモを残したりしていたことは、覚えていなくても資料ファイルの隅々にその痕跡が残っている。自分の面倒くさがりで忘れっぽい性格を熟知した、本当に私のことをよく知る人物が私のためにしてくれた仕事だと、一目見ればわかる。
 今日はその人が残してくれた仕事の仕上げを、かるーく行う日。何も辛くはなかった。地面も凍っていないし、私の服は半袖に変わっていた。歩道の端に植った木々には葉が色づいて影を作っていた。秋は銀杏だらけでひどい匂いだったし冬は痩せた裸の木ばかりで、見ているだけでも苛立ったのに、もうこんなに時間が過ぎたのかと思った。起きて寝ることが嫌だった日々も、ご飯の味がしなかった日々も、文字ばかりで眩暈がした時間も、全部過ぎて、私はまた違う困難にうんうん頭を悩ませている。

 1週間後には日本に帰れる。自分を褒めることはあまり得意ではないが、今日だけは、今日までの日々を生きた自分を褒めたいと思った。たくさん耐えて、何かある度に対策を考え、実践して、また対策を練る。鬱がきても歩みを止めないようにいろんな生活の装置を考えた。怠ける日もあったけれど、自分の声だけはやはり聞き取り続けて、正直な言動を選択してきた。他者と比べても圧倒的な量の自己対話を重ねた。そして何より今日まで生き延びて、調査をひとまずやり切ったということには100点をあげたい。日本に帰って、おばあちゃんが生きていれば、本当に帰国したところで寂しさはなかっただろう。それでもあと1週間、気を抜かずに生き延びよう。


二〇二四年八月九日更新



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