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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五十回〉

二〇二四年六月七日

 全集作業に何も関係がない文章を書きたくなって、エッセイを新しく始めた。やめたきゃやめればいい。続けられるペースと範囲で続ける。題して「マイ・フライドポテト・エッセイ」。
幼少期から大好きなフライドポテトを、最近になって「大好きだ」と言えるようになった。言わなければいけないほど美味しいフライドポテトに出会ったので、書くに至った。フライドポテトって、毎日食べたいんだよな。「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観た。私の精神世界は手塚治虫やつげ義春に類似していると思っていたけど、水木しげるだったのかもしれない。
 来週から韓国でも上映されるらしい。一度は劇場で観にいこう。

二〇二四年六月九日


バイトに行って、帰ってきて、少し寝て、「トウキョウソナタ」(黒沢清、2008年)を観て、それから記憶がない。12日から母親が韓国に来るので、どこに行こうか考えたり調べたりして、1日が終わった。
作業は何も進まず。ちょっとだけ自分を責める。だがやる気が起きない。何もしたくない。動きたくない。
というか先生のところに行って以降、ほとんど何もしていない。できていないのか、していないのか、考えるのも疲れるのだが、頭のどこか、何かによって自動的に考えられている感覚があるので直に大丈夫になってくれないかな。



二〇二四年六月一〇日

なんでこんなにやる気が起きないんだろう。なんでだろう。ゴロゴロ、ウトウトしながら考えていると、ぼんやり答えが浮かんできた。
多分、机周辺の環境が嫌になっている。

 いま、私が住んでいる部屋は四畳半もない。ベッドの脇に座って足を伸ばすと、足を伸ばし切ることができず壁に邪魔される。ベッドと壁の間は1メートルもないというのに、私はその激狭通路スペースに25冊分の本タワーをつくっている。よって私がベッドに座り、足をバタバタできるスペースは1メートル四方もなくなっている。
ベッドの足元は棚に刺さっている。どういうことかというと、棚の一番上、その下は四角の収納スペースがあり、上から三段目にはホテルでよく見かけるようなボックス型の冷蔵庫が収納されている。ちなみにこの冷蔵庫の冷凍スペースは気がついたら氷が増幅し、ムキムキの冷凍スペースとなり、何も入らなくなるポンコツぶりだ。その冷蔵庫の下には収納ではなく、ちょうどベッド幅の空間があり、その空間にベッドの足元部分が入っているためパズルのようにベッドと棚が組み合わさっているのだ。

 そして机。机は冷蔵庫を支える下板が右方向へぐーんと伸びており、そのまま机の板になっている。椅子は10センチくらいしか後ろに引けない。片付けるのが面倒な書類や使用頻度が高い書類は、私がベッドにいるときは、机や椅子の上に移動させ、私が椅子に座るときはベッドの上に移動させなければならない。けれどその積みかたも下手で(ファイルなどを一番下に敷いたりしてしまう)、よく崩れてしまう。その度に苛立ちで唇を噛み締める。

左がベッド、右が机

 結構、この環境に耐えてきたけれど最近はもうすっかり夏のような気温だ。するとデスクライトが暑さの原因にもなる。せまい、あつい、移動だるい、せまい、書類ひろげらんない、ああ、めんどう、動きたくない、勉強、、やだ、、かえりたい、、というのが事の顛末だろう。

 私は、私という作業者のプロデューサーでもある。ただ、「何を怠けている!」「何してんだ!はやく作業しろ!」と叱責するだけではダメプロデューサーでしかなく、なぜそのような状況になっているかを観察し、考え、改善してやらなくては。プロデューサーの使命を果たさねば。
 よって、ベッドに座って勉強することを許可した。机がわりに堅いボックス型のファイルを利用する。椅子も机代わりにして良い。映画をみながらご飯を食べるときは必ず机を利用する。行動の選択肢が増えたら、少し手や頭が動くようになった。
 昨日も一昨日もほとんど作業できなかったが、今日は講義動画を2本みて、《三次角設計図》のテキストデータ作成をすすめることができた。たいした作業量ではないけれど、まずは一歩目だから自分を責めてはいけない。何かを変えて1日目からすべてを全速力で完璧にこなせるわけがない。
 とりあえずこんな環境でしか暮らせない今は、「こんな感じでいい」をいかに許し、実行していけるかが問題。その各作業のクオリティを高めるのは日本にある自分の部屋にかえってからでもいい。大丈夫だ。
 もしベッドで作業するのがダメになったら、また机で作業する習慣を戻してもいいし、夏だからあまり行きたくないけれど図書館まで1時間かけて移動してもいい。何をしてもいい。やることができたらいい。

 そして今年、2024年は年間映画視聴本数120本を目指していたのだが、今日100本目に突入した。ハードルをもう少し上げてもよかったかもしれない。映画をどれだけみたかが大事ではないと思っていた時期もあるし、そういう意見を今でもみるが、あれは青かったな。

二〇二四年六月一一日

 バイトが終わって、風呂に入って、12日から15日にかけて母親が韓国に来るのでその準備を少し。そして昨日から始めてしまったバンドリというアプリに2時間熱中してしまった。BUMPのカルマ、hardモードをどうしてもクリアしたくなり、打点が流れてくるペースを調整し、練習し、本番を何度も繰り返し、クリアしたのでご飯を食べた。ご飯は21時半。ご飯を食べながら映画を観ないといけない。「生きるべきか死ぬべきか」(エルンスト・つビッチ、1942年)を鑑賞。その後、ためてしまった「虎に翼」をまとめて観ながら作業を。と、思ったのに面白すぎて手が完全に止まった。長期的TODOリストだけ作成できた。それ以外は何もできなかった。馬鹿だ。私が馬鹿なのは間違いないけれど、このドラマが面白すぎるのも罪深い。特に、2024年6月10日放送分の回は、映像が素晴らしかった。法を遵守し、闇市から食料品を買うことに抵抗した末に餓死してしまった寅子の同級生、花岡判事。彼の死は数話前から予感できたけれど、彼の死が確実なものとなったんだと視聴者に伝わるのは言葉ではなく、視覚的な映像だった。昼間なのに、真っ暗事務局内。訃報をきく寅子と、それをぽつぽつと伝える小橋の顔を斜め上から日光が照らす。戦後日本を立て直さんとする日本国憲法策定の最前線の現場が、異様に暗い。桂場のシークエンスも同じような暗さ。それらをカメラは遠くから捉えている。法曹界全体に分厚い雲がかかってしまったのを見るだけで理解できる。正直、格好良い画だなと思った。徳を同じくして、戦地から帰還した轟も花岡の訃報を新聞で確認する。真夏の炎天下。道端で新聞紙を握りしめる男にカメラが寄っていく。(あ、この人)と思った次の瞬間。画面左下に轟の顔が映る。怒りに震えたような驚きを隠せないような息も出来ないほど悔しいような、そのどれでもないような表情を浮かべる。わずかに乱れた呼吸も聞こえる。背景には強い光が見える。日光ではない、反射した光だろうか。直視すれば燃えてしまうような危なげで強烈な光が、轟の背語頭上にみえる。みる者にもめまいを誘う。食料が高額売買される闇市、格差は広がるばかり、しかし配給ではとても生き延びられないという現実。

「人としての正しさと、司法としての正しさが、
ここまで乖離していくとは思いもしませんでした」

それでもこれが自分の仕事であると言い聞かせた花岡。死ぬ間際、床に伏せる彼の目には、日本国憲法公布を前にし、戸惑いながらも明るい未来に向かう日本が少しでもみえていたのだろうか。背後の強烈な光に気づかず、茫然とする轟の視線は新聞に落ちる。しばらくの歳月の間に、二人がみる現実も大きく乖離していたのだなと思う。
 寅子が穂高先生に「家計を支えるために覚悟して法の世界に戻ってきたんだろう」と新たな仕事を提供されたとき。寅子を捉えるカメラに震えがこもっていたのも、うーん、噴火寸前の火山か、あるいは孵化前の振動か、などと思わされた。台詞ではない部分で語る俳優たちの表情を、最大限雄弁に語れるようカメラが動き、カメラ自身もまたそのふるまいによって新たな言葉を生み出している。面白い。誰か論文書きなよこれ。
作業はTODOリスト作成しかできていません。

二〇二四年、六月、一一日、更新。


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