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マイ・フライドポテト・エッセイ


 私にとってフライドポテトは、長年片想いし続けてきた”誰からも好かれる幼馴染”のような存在だ。だから、今更とても恥ずかしくて言えやしない。こんなにも皆に視線を注がれ老若男女から愛され続ける食べ物に対して、声を大にして好きだと言ってしまえば、この密かに思い抱いてきた熱々の好意が笑われてしまうのではないかと思っていた。

 フライドポテトが灯りに照らされてぬらぬらと輝きながら、こちらを見据えて横たわっている。私の眼は、一緒に食卓を囲む誰かの視線を追いかける。誰が、どこを見て、何を食べているか。その視線はフライドポテトに向けられているか?何秒、何回か?見ろ、見落とすことなく、凝視しろ。あ!ほら手に取った。何本のフライドポテトを手に取った?一本、一本、二本、いやしかし短い二本は一本か、あ、三本取った。ええ、あんなにいいのか。いやでも私はあの人のような明るく突き抜けたように笑うこともできない人間だから、三本は取れない。二本。いやいやできない。長いのを一本が一番卑しい。あの長いストロークを複数の視線に耐えて口元まで運ぶ時間にどれだけ恥いればいいのか。もうここに居る全員消えろ。私が食べている間は別世界に転送されれば私はこのフライドポテトをぜんぶ一人で味わえる。結局、皿が空くまでに手にしたポテトは二、三本。そんなこともあった。でも多分、私が一番フライドポテトのことを考えていた。
 フライドポテトが目の前にある時だけが、フライドポテトの記憶ではない。何か別のものを食べていてもふと脳裏に浮かんでは消えて、また浮かぶ。一度思い出してしまうと、それから遠くで油とジャガイモが反応しあって響く小さな破裂音、塩とジャガイモのほくほくした感じ、それらが反復運動を繰り返して頭からべっとりとこびりつく。口内では唾が大量に分泌され、つい最近のしょっぱさを今また、この瞬間に味わたいたくてたまらなくなる。味わえないと苦しい。口にすることでしか開放されない苦しみ。もうここまでくると、フライドポテト以外は何も欲しくはない。

 今だってやはり少し恥ずかしい。洋画でデブが一心不乱に食べている食べ物の一つで、デブ食というイメージもゼロではない。自分もこれを内面化してしまった節がある。でもどうしても書かなくてはいけなくなった。私が書きたいと思ったのではない。そもそも私が欲望のままに文章を書くことはない。いつだって何かから突き動かされて、仕方なく受動的に書いているにすぎない。今は、その原因がフライドポテトなのだ。それほど美味しいフライドポテトに出会ってしまった。今日はそれについて書いてみる。また、美味しさに引き摺り出されたフライドポテトにまつわる記憶も際限なく書き出してみよう。

 書いてみよう。書くと簡単には消えない。恥ずかしい告白も半永久的にのこってしまう。しかし、書くことで考えてきた私はやはり、書くことでしか真剣に伝えられない気がする。書こう。そうすることでフライドポテトへの気持ちを叫んだと同時に生じる羞恥心を、まるで神からの使命の如く甘受し、私の生に必要不可欠な感情に加工してしまうのだ。
 そうして、口にするたび新鮮かつ束の間の幸福を与えてくれるフライドポテトに渾身の文章を捧げよう。これまで私のところにきたフライドポテトは私がたまたまありついたジャンクフードではない。私がフライドポテトが好きだと自覚した幼少期からつながってきた欲望が、ある時、ある店に歩みを向かわせ、全てのフライドポテトへと繋がったのだ。
 油に浮かんでは消える気泡みたいに扱わない。フライドポテトという重たい存在、それ向き合った私の時間を半永久的に此処へ留めることにしよう。

 私はフライドポテトが大好きだ。好きという言葉ではまったく足りない。愛しているという言葉ではあまりに一方的で軽すぎる。あの包装に収まったフライドポテト一本一本に「なんて美味しいんだろう」「本当に大好きだ」と思わされてきた。「大好き」の”大”には、これまでとこれから食べてきた(食べる)フライドポテトの途方もないであろう量を込める。大好きは、溢れんばかりの質量の大きさそのものなのだ。

2024年6月2日 Mom's Touch L size & M size


 Mom's Touchは韓国で約1420店舗あるバーガーショップだ。
この2024年4月には日本・渋谷に一号店をオープンさせて大盛況らしいが、私は現在韓国に滞在中なので、行きたいと思えばいつでもノーウェイティングで、空いていれば店内で一人きりのこともある。もうすでに何回行ったかわからない。韓国グルメなんかに目もくれず、毎週通っている。

 出会いは12月。バイトでの昼食に配達されたのがきっかけだった。
「なんだこれ、マムズタッチて。お母さんのタッチ?母の味ってこと?母の味ってキムチじゃないんか」とせせら笑っていた私の時は、バーガーを齧った瞬間にすべて止まった。
 チーズがかかっているのに、チキンがカリカリサクサクしているのだ。配達だから私の口に入るまで20分はかかっているだろう。でも、まだサクサクしている。チキンの衣に歯がめり込んだ瞬間から、”サク”という音が鳴り始めるのが歯でわかる。歯がスピーカーになったのかと思うくらい、サク…という感覚が耳に伝わってくる。中身も不味いわけがない。肉汁が「ジューシーだ」と感じるに適切な量溢れてくる。ジューシーっていう言葉はなんとなく、使い古されてきて言うのも恥ずかしいけれど、他に似合う言葉もない。バーガーを包んだ紙をピンと広げて、顔を隠しながら食べた。あまりの美味しさに笑っていたからだ。無口な人間が、満面の笑みでバーガーに齧り付いていたら誰も喋りかけてくれなくなる。
 で、フライドポテトもあるね。あるんだよね。これ。黄色い棒が袋からいっぱい出てるね。これポテトだよね。間違いない?これバーガーな訳ないもんね。うわ緊張してきた。私今、君に緊張してる。久しぶりに未知と遭遇してる。ねえ触っていいかな。どうやって持ったら嬉しい?やっぱ初手でケチャップは冒涜だね。触るよ?いい?てかこのやりとりめっちゃ色気あるね。君が引き出してるやりとりだよ、見て。この緊張をみて。すでに期待値半端ないよ。期待値がもう私の目には見えないところまで上昇してしまったけれど、どうしようか。よし、触るよ。

 ポテトは一本一本紙に包装されていないので、満面の笑顔を隠すことができない。仕方なく、突然に他のバイトらの会話に参加し、笑っても変じゃない環境を作った。Mom's Touchのフライドポテトは私がつくった期待値を通過し、遥か遠くで大きな憧れに変わった。

 それからもう何回行ったかわからない。このバイト先はやめてしまったけれど、働いてよかったことがあるとすればDr.Gの化粧水を拾えたことと、Mom's Touchに出逢えたこと、この二つ。

 6月2日、夜9時半ごろ。いつもはホテル清掃だが、緊急でフロントのシフトに入った。Twitter依存症のため、お客さんがいない時にスマホを見てしまった私は、「あんた遊びにきたの?そんなんしてたらダメよ」と社長夫人に電話越しに説教された。(うるせえな、普通に考えて遊びに来たわけねえだろ。ただのTwitter依存だよ。遊びに来るなら朝8時なんて時間から出勤するか馬鹿。てか家からフロントの監視カメラ見てるなんて暇だな)と一日ネチネチと文句を言いながら、退勤してフラフラとMom's Touchへ。だいたいさあ、他のバイトもスマホやiPad見てるぞ。
嫌われてんのかな私。でも安心しろ。私もお前が嫌いだ。

半端な注意が多い人間は嫌いなんだよなあ。
そしてMom's Touch入店!店内が明るい。

カップルが先に入店していて、パネルで注文を選んでいる。こいつらより早く注文を入れないと、提供に時間がかかる。ゆるせない。パネル操作しながら片手でカードを取り出し、勝利。その1秒後くらいにカップルが注文を入れた。待機順のパネルを眺めながら恍惚感に浸る。

 Mom's Touchの店内は黄色を基調している。チーズの黄色か、フライドポテトの黄色か、よくわかんないけど自分も食欲が煽られて気分が良い。
 ちなみに今日はテイクアウト。私はMom's Touchでテイクアウトして、フライドポテトが部屋まで綺麗に残っていたことがない。

 フライドポテト情報


韓国ではLサイズは350円ほど


Lサイズ。普通に足りない。


 Mom's Touchのフライドポテトは写真のような風貌をしている。友人にこのフライドポテトについて語るとき、私はきまって「枝みたいな衣の状態で」という言葉を使う。

 フライドポテトを一本手にとり、眼球に触れそうな距離で見つめてみる。艶やかなボディ、多方向に向いた衣、ぽつぽつと絶妙な距離に位置する塩胡椒、長い一本の先端を人差し指と親指で摘んでも折れることなく、ただただしなるのみ。黄色のうえに薄くも深い赤みを帯びているのに色気を感じさせる。黄金の枝のようだ。

 齧ってみるとわかるのが、Mom's Touchのフライドポテトは全部で三層からなるということ。まずサクサクした衣、その下に薄い油膜のような層。そしてジャガイモのほくほくとした食感と風味を十二分に蓄えた中核。二層も油を感じる部分があるなら、相当胸焼けするだろうと思えてしまうが何故かそんなこともない。

 最上層部の衣は、塩胡椒なのか小さな胡麻なのかよくわからないが風味の主役となる部分をその位置にとどめている。とどめるための油の膨らみがサクサクとした食感を生み出していることはまじまじと見ればわかってくる。いやあほんとうに。見れば見るほど黄金に輝く小枝みたい。
 次層の薄い油膜のような層は、最上層部とジャガイモ本体を結びつける仲介人のような役割がありそうだ。場合によってはジャガイモの皮がこの部分を制することもあるようだ。

 そして中核部。ジャガイモのほくほくさを残した純白の色だ。ケンタッキーで提供されるフライドポテトほどジャガイモの身が詰まっているわけではないが、十二分にジャガイモの味を感じられる。

 最上部の麻薬級に美味しいオリジナルのフレーバーとジャガイモはまず一噛みしたときは個々それぞれの味として感じることができるが、食べ物を噛む段階を超えて、咀嚼段階に移行すると同時に、それらは滑らかに融合し始める。ジャガイモの味を覆ってしまうほど濃い味でもなく、また逆に、ジャガイモの本来の味に負けるほど味が控えめなわけでもない。どちらもがどちらもを引っ張り合って、口内にふわっと広がってくる。黄金の小枝に似た表面、カリカリとした食感、太陽光を吸収したような明るい色味、フライドポテトとしてとても刺激的な要素がより集まっているというのに、口の中では全てが程よく絡まりあって、何をも邪魔し合わないような味にあって「美味しいな」という感想を生じさせる。

 私がMom's Touchに通い始めてから、冷めたフライドポテトを提供されたことがほとんどない。しかし何故かこの日受け取ったフライドポテトは冷めていた。店をでてから15秒ほど経つまでは、「部屋につくまでフライドポテトを我慢して、よくよく観察して!それから自分に食べる許可を与えることにしよう」と意気込んでいた。
「むむ!しかし触感も記述しなくては!そのためにはまずよく触っておかないと!」
 そう思って手を伸ばすと、なんだかフライドポテトの表面が冷たい気がする。気がする、ではいけない。食べなくちゃ。口に入れるまではわからない。食べたいわけでも我慢できないわけでもなく、このポテトが冷たいかそうでないかを確認するための確認作業、これは必要だ。一口食べてみるとやはり冷たかった。冷たいことに肩を落とした。熱々のフライドポテトでなければ書けないじゃないか。もうやめよう。そこからトップギアでフライドポテトを食べ始める。

 しかしまだ家まで徒歩で10分弱ある時点。とりあえず、フライドポテトエッセイを書くことを宣言していた友達に「ポテトが冷たいので何もかけません!」と半分怒りながら連絡を入れた。すると彼女は「冷めていても美味しいポテトこそ美味しいポテトだと証明できる」と言った。私は、握りしめていたフライドポテトをゆっくり袋に戻した。彼女の言う通りだ。私がフライドポテトエッセイを書こうとしていたのは嘘ではない。しかし、フライドポテトのあまりの美味しさに、書くことをやめようとしていた。美味しいものを食べている真っ最中に、これをどう書こうかな、何を書こうかななんて雑念を入れたくないし、単純に面倒くさくなった。書かなくてもいい理由を探していたのだ。フライドポテトにはそれだけの魔力と謎が秘められている。だからこそ、書くことで暴かなくてはいけない。
 彼女の言葉により正気を取り戻した私は、今帰り道で食べるのは我慢しようと決意。トップギアでしばらく爆走しちゃったものだから完全停止はできないかもしれないけれど、15本くらいは残して部屋に到着しよう。

 やはり!
 家に帰るとフライドポテトたちは冷めているというより、口に含むと中核部のジャガイモに冷たさを感じるまでになってしまった。はあ、と溜息つきながらも、計測作業の準備と映画鑑賞の準備を始める。15本以上残っている。かなりの忍耐力をみせつけてゴールインしたようだ。忍耐力はどのようにして発揮されたかといえば、全力疾走したのだ。全力で走る人間がフライドポテトを袋から取り出して美味しくいただくことは難しいということくらい私にもわかる。
 計測の結果は以下のとおりだ。


反射してみづらいが、1センチ前後もある!

 もちろん、ポテトの長さはさまざま。平均値をとるのも不適切だろう。しかし厚さはだいたいこんな感じ。私はいつも、親指、人差し指、中指でフライドポテトたちを引っ掴んで口に放り込んでいたため、一本一本の厚さなんて考えたことがなかった。申し訳ないことをしていた。

 冷めたフライドポテト。二人きりの闘技場にワープ。フライドポテトも私も試されている。フライドポテトが食べられることは決定している。私が目の前の獲物を取り逃がすことは100%ない。それにも関わらず、両者に走る妙な緊張感。フライドポテトなんか冷めてしまっては、油が全体に回ってしまい、味も食感も変わってしまう。親たちも冷めた状態ベースでこのフライドポテトを開発したわけではないはずだ。そして私は私で、冷めたフライドポテトが執筆対象になるとは露知らず、出来立てのフライドポテトで計画を立てており、実際、冷めたフライドポテトの方が好きだという感情は微塵もない。冷めたフライドポテトが好きだとわざわざ伝えてくる人間も、奇を衒っているとしか思えない。それなら油とジャガイモ、同時に口に入れて喜んでいたらいいんじゃない?という話だ。

 でも今目の前にあるポテトは冷めきっている。

 期待はやめておこう。口に入れてから考えよう。ああ。
10センチほどの長めの一本を取り出して、口に入れる。まずは食感を味わうために5センチくらいの地点で噛み切ってみる。うーん、やはり冷たい。舌に僅かの冷たさを感じるくらい。油が回っている感じも避けられない。味はもちろん、出来立てのフライドポテトの方が良い。出来立てのフライドポテトには、三層分の食感に対するサプライズやそれに伴う味の変化など、一本で無限に楽しませてくれる性格がある。もちろん、味のクオリティが劇的に落ちるわけではない。美味しいといえば美味しい。しかしいつもの目を見開いて「美味しい!」とこぼしてしまう要素はかなり減少しているように思えた。
 ふむ。美味しいけど、不味くはない。食べられないものでもまったくない。
 二本目も口に入れてみる。やはり冷めている。さっきと大して変化のない感想ばかり思い浮かぶ。
 三本目。少し噛みかたを変えてみる。今までは、出来立てのフライドポテトと同じく、右の犬歯から奥歯にかけた部分をつかうような噛みかたをしていた。三本目からそれを前歯での咀嚼に変えてみた。すると、食感が変わった。
 カリカリ感が少し、ほんの少し残っている!カリカリサクサクというよりは、チャクチャクという感じに変化してはいるものの、カリカリした食感だだった頃があったんだと感じられる歯触りだ。油が回っているという事実は変わらないものの、油が三層全てに染み込むことでモチモチとした食感に変わっている。三層分の食感から二層分の食感に変わってしまっているが、形を変えて変化をとどめているらしい。味に変化はないものの、こうした感想の違いが生まれた原因の一つに、奥歯で噛むとポテトと歯の接触面積が大きくなる分溢れ出る油量も増えるが、前歯で噛むと接触面積が変わることが挙げられるだろう。

 フライドポテトは人間ではない。フライドポテトに非がある機会なんてない。今回だってそう。私が自分の食べる態度に研究をしなかったから、まるで冷めたポテトが悪かのように感じられたのだ。冷めた状態で提供した店員に若干の苛つきはあるけど、悪いわけではないし、申し立てるほどのことでもない。フライドポテトが冷めることも当たり前のことだ。ただ、私が反省しなくてはいけないのは、出来立てのポテトも冷めたフライドポテトになるということだ。

 私が「冷めたフライドポテトより出来立てのフライドポテトが良い」というのは、親が「3歳くらいの時はこの子どものこと好きだったけど、15歳くらいになるとあんまりかな」といっているようなもので、かなりむごいことだと思う。フライドポテトそのものと、避けられない変化を切り分けて考えてしまっていた。しかし出来立てのフライドポテトが美味しいなと思うのは事実なので避けようもない。どうしようもない。私はまたフライドポテトと会い、食べたいと思うので、「変わってしまったお前はあんまり好きじゃない」なんてことは言いたくない。だから、こう考えることにした。

 出来立てのときは、君から与えられる喜びを私は全身で楽しませてもらって、どうしようもなく冷めてしまったときは、私が君をおいしいと感じられるように工夫する。そうすると、互いの変化をそのまま”美味しい”へ向かわせることができる。



  マイ・フライドポテト・エッセイ(1) 2024.6.7

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