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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五十四回〉

二〇二四年七月一一日

 今日は休み。昨日はバイト先にて、七月いっぱいでバイトを辞めると伝えた。最近のバイトは穏やかだ。おばちゃんと喧嘩することが減ったし、私はずっと歌っている。何もせずに歌っている時間がたまにある。いまハマっているのは、嵐。「Happiness」の歌詞があまりに哲学的すぎるのに、こんなに軽やかで楽しい曲だと気がついて悶えていた。最高だ。
 朝10時に起きて、郵便局へ。総重量40キロの本や資料を日本に送る。このために昨日(10日)は、資料確認作業を行なった。紙ってものすごく重いので、韓国で印刷した資料はできるだけ送ってしまいたかった。vol.1、2、3とあるうちのvol.2まで送れそうだ。今のところ大きな資料不足もない。今は消しゴムハンコと映画ばかりで遊んでいるが、数ヶ月前の自分の努力を思えば本当に凄まじいというか、尊敬の念が絶え間なく溢れる。あの精神状態で、韓国の街を駆け回り、集め回ったのだ。大学一年生、四年生が人生一番の地獄だと思っていたが、地獄は違うかたちで深みを増して何度でも私の人生に立ち現るものなんだなあ。それを乗り越えて、生きててくれてありがとう。
家から郵便局まで歩いて10分と少しの距離、それを2往復して荷物と段ボールを運び切った。郵便局に着くと汗だくだ。あまりに重すぎるので、分けてくださいと言われ、EMS(飛行機)で全て送ると高すぎるよ〜!と言われ、ハイヨハイヨと従った。結果、総重量30キロのダンボール1つを船で、総重量10キロの資料と本をEMSで送ることに。合計160000ウォン超え。船は1、2ヶ月かかるらしい。もう届かないことを覚悟して書類作成に移った。郵便局のお姉さんたち、優しくて大好きだ。総重量40キロにゲラゲラ笑っていた。
 そして今日は、小森はるか特別上映のラスト『空に聞く』を観に行った。5作の中では『息の跡』、『ラジオ下神白 あのとき あのまちの音楽から いまここへ』が特に良かった。日本語では例えば「息を飲みました」と出演者が話していても、韓国語字幕では「すごく驚きました」と翻訳されるような瞬間をみた。翻訳文字数に限りがあるからか、そんなに表現が乏しいのか(そんなわけないと思うのだが)、うーん、これはもうちょっと複雑なまま、曖昧なまま訳した方がいいのになあと思うことがあった。それでも小森はるかの映像に関心を寄せた韓国人が、私が思っていた以上に多いのだとわかって嬉しかった。韓国から小森はるかに関心を持つということは、映画に対するアンテナもそれなりに敏感で、日本で起こった東日本大震災、それ以降の表現に関心がある人たちなのだろう。もちろん話しかける勇気はなく、ただただ噛み締めて一人帰るだけの5回だった。


二〇二四年七月一二日

 昼から映画館に行かないといけない。14時半からエリック・ロメール『モード家の一夜』が上映されるのだ。歩くだけで汗が噴き出るが、日本は多分これ以上だと思うと我慢できる。一ヶ月のエリック・ロメール特別上映なのに、もうすでに2回分バイトで行けなかった。可愛い特典付きな上に、人気ある監督だからもうダメだ…と思って料金を支払うと、相変わらず良心的な「10000ウォン」のレシートと、特典をちゃんともらえた。一番好きな席が埋まっていたから、最前列の真ん中を陣取った。
 映画冒頭、フランスのどこかの平原が映る。積読している本「眼がスクリーンになるとき」というタイトルを思い出した。こんなに前、というか前すぎて顔を上げないといけない席で映画を観るのは久々だった。ああ、そうか。いつも二列目、三列目の楽な席で観ているときは自分の身体の楽さを優先させているけれど、ここまでスクリーンが近いと身体なんてもうないようなもので、代わりに眼へのストレスがものすごく、それは”みる”しかない状況を迫られている。だからこのタイトルを思い出したのかなあ。今、スクリーンと眼が一つになっている。終盤はそれに疲れてしまったのか、早く難しい韓国語字幕に疲れたのか、うとうとしてしまった。
 軽く買い物をする。特典のA3ポスターはあんなに嬉しいのに、買い物となると少し邪魔。お肉と豆もやしを買いたい。お肉はいつも鶏肉を買うのだが、前回とんでもない腐らせ方をして激臭を嗅いだので今回は豚にした。このスーパーの店員さんも優しくて好き。誰かが優しいとかでなく、全員が優しい。挨拶も目を見て、にこやかにしてくれるし、接客の時も声が柔らかい。会計を終えて「アンニョンヒゲセヨ〜」というと、「アンニョンヒガセヨ〜ジョシメカセヨ〜」と言ってくれる。「ジョシメカセヨ〜」は気をつけて帰ってくださいという意味。私は友達にも意識的に使うくらい、この言葉が好きだ。自分と離れたあとのその人の身を案じていることが伝えられる言葉だと思う。それに本当に気をつけて何事もなく帰って、また会いたいと思うから伝える。店員さんにそれほどの想いはなくても、私が使うこの言葉にはこうした意味があるから、言われると嬉しいものだ。
 帰って風呂、映画、ご飯、消しゴムはんこ図案作成をのろのろとこなす。めっちゃ疲れた…。
 

「眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』」(福尾匠著、フィルムアート社、2018年)

二〇二四年七月一三日

 今日は家に籠る。たくさん寝て、昼から活動。消しゴムはんこの図案を10作ほど描き、彫り作業も行なった。昼に映画も観ることができ、簡単に料理もした。テキスト関係の作業もしようと思ったが、起きるのが遅かったか手が回らず。明日は作業したい。というかそろそろせねば。遊びすぎだ…。どうも日本に帰国してから黙々と作業している自分の方が鮮明にイメージできてしまって困る。今はどうなんだよ…。明日こそは…。ごめんなさいごめんなさい。


二〇二四年七月一三日

 今日はバイトだった。面白いことが二つ起きた。一つは、おばちゃんがAirPodsを拾った。昼ごはんの時に「こんなの拾った。繋がるかな」と言って、AirPodsを見せてきた。羨ましいと思ったけれど、おばちゃんは畑仕事もするからワイヤレスイヤホンはあったほうがいいかと思って接続方法を教えてあげようと思った。けれど冷静に考えてみた。もし、お客さんがまだ韓国内にいて、まだホテルに取りに来られる場合はどうしよう。おばちゃんは盗んだということになってしまう。なので私は「しばらく経つまで持って帰らずに保管しておきましょう、怒られちゃいますよ」と助言した。「そうかもしれないね」と返事がある。「頭いいでしょ」。鼻で笑われた。
 あとでわかったことだが、そのお客さんはやはりまだ近くにいたらしく荷物も一時的に預けていた。持って帰らなくて良かったね。

 もう一つは、掃除機の充電コードを壊したこと。ホテルにあるエレベーターは、扉の間に何か横たわっていればセンサーが反応して継続的に扉が開いてくれるタイプのエレベーターだ。以前、掃除機が壊れてしまって現在使っているのは充電コードで充電するタイプのコードレス掃除機だ。お客さんもほとんどいない時間。荷物の積み込みをせっせとしていた私。扉の間に何かを横たわらせていると思い、作業していたが、そこにあったのは充電コードだった。流石にエレベーターも細い線を感知できなかった。まあ、今はお客さんいないし!と慌ててボタンを連打したが、運悪く降下。ガチャガチャと音がした。頼む。コードが思ったより長くて生きながらえてくれ。頼む。さっきの連打に応えるようにエレベーターが上昇してくる。頼む頼む頼む。チーンと音がなる。そこにあったのは、コンセント差し口に10センチほどのコード。繊維が剥き出しになって完全切断されていた。いや、まさか、まさかそんなこと起こらないよね、でも、でも!と悪い予感をもちながら無情にも開かれたドア。映画『セブン』のラストシーンみたい。とりあえず社長には平謝りしたが、脳裏には(『セブン』っぽ〜い!)という言葉ばかりが反芻していた。今日は他にもミスしたが、根本的な原因は上司の指示不足、監督不足なので何にも反省していない。
 最近の精神状態は良好。よって、何かを自分のせいにして無闇に責めたりはせず、(自分は悪くないな)と判断すれば全く反省しないのである。しかし上司という生き物(指示者)は下っ端がペコペコ謝ると思っているのでドーンと構えている。「謝れ」という圧をふわつかせながら。当の私はというと、(謝れって言われたら、謝るよ?言い返すけどね…)と思いながら私も同じくドーンと構える。こんな人間が会社なんかで働けるわけがない。

気乗りせず作業は全く進まず。明日は休みだから少しは進めないといけない。フー、やるぞ。


二〇二四年七月一四日

 今日は一日部屋にいた。天気が悪いらしいので、昨日から部屋に籠ると決めていた。まず起きて、消しゴムハンコを彫りながらアニメを観た。『逃げ上手の若君』を見始める。面白いのに、こんなに綺麗なアニメーションであることにどこか寂しさを覚える。こんなに美しく動かなくていいのに、となぜか思う。そのあとご飯を食べて、イラストレーターで色々データをいじる。オードリーのラジオを聴きながら作業していたのだが1時間ほどうたた寝していたらしい。でも欲望に打ち勝ち、そこから本格的な昼寝はしていない。えらい。トイレに行ってふと、本を読みたいと思った。
 本はほとんど送ってしまったがいくつかは残してある。そのなかから手に取ったのは「サバルタンは語ることができるか」。ガヤトリ・C・スピヴァクによる著作だ。この本は大学3回生のときに担当教員から薦められた本だった。日本の植民地下で執筆する李箱について調べていたから、「サバルタン」(subaltern)、自ら語る言葉、声を持たない従属的立場にある人間について書かれた本を先生は薦めてくれたのだと思う。発表の後、質疑応答タイムで推薦されたこの題目は、「面白そう〜」と他のゼミ生から注目を浴びた。私はその足で京都丸善まで本を買いに行った。みすず書房だ!大好きな出版社!興奮が収まるのを少し待ち、ぬるまりはじめた頃合いに頁をめくってみた。5頁ほど読んだところで嫌な予感がした。(これは通読できない)。難しすぎる。書かれている用語も歴史も概念も、理論同士の関係もよくわからない。あまりに調べることが多すぎてダメだ。これじゃあ論文執筆を後に回しても時間が足りない。しかし簡単に諦めてはいけないと思って、何週間かリュックに入れて持ち運んではみたものの、同じ頁を読んでは眠くなって、寝てしまって、その日は本を閉じるの繰り返しだった。
 しかし今日はいける気がした。理解はできないかもしれないけれど、時間もあるし、何時間もかけて1頁を読む自分をにこやかに眺める余裕も今はある。そう軽やかに決心し、本を開いた。や〜〜〜〜〜〜っぱり難しい。1頁めくったあたりでもう眠い。だが、2時間半かけて5頁を読み進めた。そして登場する単語はだいたい一般通用的な意味は理解できており、調べるのは理論同士の関係や用語の再確認だけで済んだ。段落構成は簡潔でわかりやすいのに、一文が長く、たまに接続語や逆接語が馴染みないかたちで訳されていて混乱する。そして何より難解な用語の系譜や意味は知っている前提で話が進むので言葉足らずだ!と感じてしまう箇所も多い。かといって注釈には文献案内ばかりで読み通す手助けにはならない。サイトやYouTubeにもめぼしい解説文がない。2時間半、かかって当然だ。
 理解できているか否かはさておき、テキストを理解しようと時間と労力を費やすとはなんと面白いのだろうと思った。無人島に持って行くなら難解な本15冊にしよう。そしたらその難解さにウムムと唸っている間に死ねる。


二〇二四年、七月、一五日、更新

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