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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第十六回〉


 今日は、ソウル大学の中央図書館に行き、朱色影印版の計測をする予定だった。しかし起きて、李箱の家に行こうと思いついたので、そうすることにした。

 李箱の家には、李箱のグッズやポストカードなど観光的要素もありながら、テキストが所蔵されているとネットで見たことがあった。写真ではよくわからないが、もしかしたら原点があるかもしれないと思った。

 李箱の家は景福宮駅2番出口から、徒歩10分くらいの場所に位置する。当時の李箱の家ではなく木材やコンクリートを基調とした随分と綺麗な作りに改装されていた。道から中が丸見えなほど窓が大きい。


 入ってみると、店員の方が現れて動画の再生ボタンを押してくれた。紹介映像を見てくださいとのことだ。彼の口からは「イサンソンセンニム」という言葉が何度か発された。そうか、彼やこの国の研究者からすれば李箱って呼び捨てしてはいけない先生のような存在なのか、李箱という人間に対して一度もそんな敬称をつけたことがなかった。


 動画を見終えると、李箱の家にあるものを大まかに紹介して、その後に客が好きに見てまわることになるらしい。店員の方が、テキストを取り出してルーペなどが置かれた台においた。テキストはガラス2枚のうち下側のガラスに印刷されており、ガラスでサンドされるような形でテキストが所蔵されているようだった。頁が複数枚ある場合には、やや黄色みがかった上等な紙に印刷されて、画鋲でまとめられていた。店員さんが徐に取り出したのは《翼》のテキストだった。やっぱり、このテキストで李箱の評価は180度変わったんだなあと思う。テキストは大体所蔵されているようだった。その下の本棚には、李箱の研究書籍や全集がずらりと並んでいた。

 

李箱の家から見えるインワンサン。
確か、《翼》に登場するあの山だと店員さんが説明してくれた。


店員さんの説明が終わって質問してみた。


「ここに、テキストの原文はないですか?」

「ああ、雑誌などの原文ですか?そうですね、ないですね。ここにあるのは複写版だけです。原文は国立中央図書館や、博物館などにあると思います」

「では、複写版の縮小倍率はわかりますか?」

「縮小倍率ですか…わかりませんね。専門のデザイナーの方がすべてやったことなので、わかりません。」

「そうですか〜、ありがとうございます。」

 収穫なし。ガラスで見るテキストより、なんだか丈夫な紙で読むより、影印版テキストの方が原文に近い感じ。手に取ったらすぐ読めるのではなく、その題目を探し求めてパラパラと頁をめくり、やっと辿り着く。書物であり、紙であり、それは劣化し、いつか読めなくなるかもしれないという不安に付き纏われながら読む。それでいいはずだ。デジタルにすれば、丈夫な媒体にすれば保存したと言えるのだろうか。それは葬ることと何が違うのか。テキストはやはり読まれる形でいなければならない。不安や劣化と切り離せない形で、読み手との共存を探る図書館はこの世にもうないのだろうか。

 この施設は、寄付金でほとんど成り立っているらしい。寄付金を2000ウォンした人にはコーヒーを振る舞ってくれるらしい。でも私は寄付金ってなんか違うなと思ったので、李箱の顔写真2枚と李箱の筆跡で書かれたテキストポストカードを購入した。自室の壁面に貼って、私を監視させるためだ。

 大きな窓がついた扉を開けようとすると、白い斑点が視界に浮かんだ。初雪だ。

 李箱の家に行った感想としては、何も感じなかった。もっと圧倒される何かがあるのか、感動的な出会いがあるのかと想像していたが、行ってもよいが別に行かなくたってよかったなくらいの感想だ。おしゃれカフェのような建物に、李箱を感じるわけがないと半分怒りを覚えると同時に、この李箱という人間はテキストのなかに潜りっきりのまま亡くなったのではないかと、ふと思った。この人、この世界でちゃんと生活していたのかな。テキストを読んでいる方がよほどこの人の息遣いを感じる。

 気持ちを切り替えてこの日は、景福宮を観光することにした。あまりに寒い。韓国語での案内ツアーに参加した。朝鮮総督府を建設するために破壊されて、再建されたのが現在の景福宮。ツアーガイドの人は、やや遠慮がちに「日本人の方ですよね、聞いてくださいね」と言ってくれた。私はただ聞くことしかできないが、昔から続いてきた伝統文化、民族史の本丸とも言える場所を必要以上に、徹底的に破壊されて朝鮮総督府を作られたのだから、怒りを露わにしたっていいのにと思う。李箱はあの家からこの場所に出勤していたのだ。

全部見て回るには3000ウォン必要です。景福宮。
景福宮からみえるさっき李箱の家から見えていた山々

 バイトに行って、家に帰ってすぐ李箱の写真を壁に貼り付ける。自然と背筋が伸びて作業をスタート。死人に口無し。だがテキストは何らかの形で遺った。そこで見てて李箱。



二〇二三年、一一月、一九日執筆。二〇二三年、一一月、二二日執筆。

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