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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第十回〉

 定本作業日誌をサボってしまった。生活が大変だった。韓国で暮らす部屋に入居したり、それに慣れるのを頑張ってみたり、散歩して街に体を馴染ませたり、前回の定本作業日記から二日後、ばあちゃんが亡くなって日本に一時帰国したり、色々あった。人間色々あるように、私も色々あった。ワードにはたまに書いているけれど、こうしてnoteに更新することが億劫になっていた。

 でも研究は続いている。本を読む時間や気力はなくなっているが、韓国でできる実地調査は続いている。結局、国民大学図書館ソンゴク大学へは大学図書館への入館も許されなかった。もちろん『朝鮮と建築』を閲覧することも叶わなかった。

 おばあちゃんを見届けるために、日本へ一時帰国したとき、国立国会図書館関西館に行った。日本にいたのに、李箱のテキストが掲載されているであろう雑誌の有無や、影印版の有無をちゃんと確認していなかったからだ。なんでだっけ。渡韓準備に追われたからか?

 国立国会図書館関西館での収穫は、あった。
「朝鮮中央日報」1934年7月24日〜1934年8月8日掲載《鳥瞰図》
「朝光」1936年3月号掲載《西望栗島》
「女性」1936年4月号掲載《女像四題》
「朝光」1936年5月号掲載《내가 좋아하는 화초와 내 집의 화초》
「女性」1936年10月号掲載《행복》
「朝光」1936年10月号掲載《秋の探勝処》
「女性」1936年12月号掲載《봉별기》
「朝光」1937年2月号掲載《童骸》
「毎日申報」1937年3月掲載《황소와 도깨비》
「朝光」1937年5月号掲載《종생기》
を複写してきた。
原本ではないが、どれも影印版ではある。しかし縮小倍率がわからないのは困ったものだ。

 影印版をまた複写して何に使うかといえば、例えば韓国で原本あるいは精度の高い影印版に接触できたとする。そこで計測したサイズを複写物に書き込んでいくことで、最終的に設計図が出来上がるという算段だ。ただ箇条書きでメモにすると安上がりでいいが、メモするためのルールを作る必要が発生するほか、メモされたサイズがどこを指しているか探す段階から始めるというタイムロスが考えられる。よってこの複写物は惜しみなくお金を使って良いところだ。


 それにしても、朝8時に家を出て車で国立国会図書館関西館へ向かい11時半まで複写作業をしたり、職員問い合わせをしてバタバタして大慌てで家に帰り、その間ずっと「ああ今日、ばあちゃんの骨があって、ご飯が出てきて、自分の部屋がきちんと確保されているこの国から出ないといけないのか」と思うと、待ち構えていたかのようにさっと憂鬱に覆われて呆気なくやられる。ばあちゃんは、両親が働きに出ている間ずっと面倒を見てくれた。夏休みは毎日のようにばあちゃんの家に行き、ばあちゃんもよく家に来てくれた。自転車で10分。互いの家を互いの自転車で行ったり来たり。ばあちゃんはすごく優しい、私に甘いと言うわけではなく、よく叱られた。服装がだらしなかったり、掃除を怠ると「こら!」と全然怖くない声で、怒った顔をつくって叱る。
 でも自転車でならどこへでも連れて行ってくれて、出かけるたびにポケモンパンを買ってもらった。ばあちゃんの漕ぐ自転車は私を平気で置いていくほど早くて、全く追いつけなかった。必要なものと、あ、良いなあこれと思うものは買ってくれたけど、おもちゃ屋さんに連れて行って「なんでも買いな」という祖母ではない。けれど何故か、靴をよく買ってくれた。土曜日、よく母とばあちゃんと私でショッピングモールに出かけた。母がユニクロで服を物色している間、私は母がどんな服を買うか、似合うかなんて興味がないのでいつもベンチで休んだり他の店を見て回った。おばあちゃんがいるときは一緒にベンチで座って喋ったり、黙って人の流れを見ていた。そのモールのユニクロの隣にはA B Cマートともう一つ聞いたことのない名前の靴屋が何軒かあった。ばあちゃんは、

「靴いらんか」
「欲しい靴ないか」
「みてきいな」
「もう靴ボロボロやんか」

と私の靴を買いたがった。理由はわからない。裕福ではなく若い頃から還暦を過ぎても働きまわっていた人だから、動くために欠かせない靴を大事にしていたの?尋ねたことはなかった。

 家の前に流れる川。堤防。堤防脇の道路。車が止まると降りないといけない。降りて、家を出ていく準備をする。父親が関西国際空港まで送ってくれるというから言葉に甘えて父の半休帰りを待つ。テレビをつけて、ご飯でも食べようかと思ったけど気乗りしないし、いつもなら全部口に放り込んでしまう和菓子も眺めているだけで疲れる。ばあちゃんの遺影や線香などを置くために少し片付けられた台所付近。ばあちゃんは毎日毎日しつこく掃除していた人だからこんなのでは満足しないだろう。遺影は私がばあちゃんの家によく行っていた頃にスマホで撮った写真。テレビが大好きなおばちゃん。テレビを見て微笑んでいる。私はその顔を近影で撮ったが、写真が嫌いなおばあちゃんはカメラに気がついていて満足に笑えないで微笑んでいる。

 ばあちゃんの移動手段だった自転車は、自転車で車にぶつかりそうになり、転んで骨折したので乗れなくなった。その車はばあちゃんを置いて行ってしまった。今でもその運転手を探してばあちゃんが骨折した箇所と同じ骨を粉になるまでぶん殴りたいけど、監視カメラはなかった。手術をして、ばあちゃんの足には骨の代わりに、骨に似た鉄製の棒とボルトが入ってまた動けるようになった。死ななくてよかった。けれど、移動が億劫になると体も精神も疲労、疲労、疲労。以前からよく行っていたおばあちゃんの家にさらによく通うようになった。思うように動けなくなったばあちゃんはよく泣いていた。泣き虫で可愛かった。少し古い家の玄関口や階段などそこらじゅうについた真新しい手すりが切なかった。ばあちゃんが動きづらくなってから、靴はどんどんボロボロになりそのまま履くようになった。玄関先まで見送りに来てくれて、「こんな靴はいて、もう」と呆れられることもしばしばあった。

 私はおばあちゃんがいつか死ぬことも、自分が先に死ぬ可能性があることも何故かよく理解していた。なくなってから大切さに気が付くなんて信じられないほど、ばあちゃんのことを大切だと思ってきた。写真も撮ったし、おばあちゃんを邪険に扱うことも、鬱陶しいババアだの思春期らしいこと思わなかった。またばあちゃんの家に行くのか面倒くさいなと思ったりしたが、行かない理由になった覚えが本当にない。ばあちゃんが好きな自分に酔って忘れてしまったのかもしれないけど、反抗なんてしたら後悔するとわかっていたから、ばあちゃんがいつかいなくなる人だと思って接した。切ない。手すりも、そうやって安全に接してた中学生、高校生の私のことも。どうでもいい。
 ばあちゃんのことが本当に好きだ。ばあちゃんに線香をあげる。火葬の時に手紙を書いたり、語りかけたりしたけど、何しても伝わる気がしなかったけど、遺影の前にしゃがみ込んで骨壷を抱いたり、線香を眺めたり、遺影の後ろに見える空を見たり、あるいは、写真の中にいるばあちゃんを前にしていた私の身体を奪おうとするように写真をじっと眺めていると、何かがしゅるると音を立てて起き上がり、宇宙のどこかに散乱したばあちゃんの遺した物質からあの頃のばあちゃんに向かって行ってくれる気がした。おばあちゃんと離れる日が怖くて、どこにも行けないと思っていた時期も長かった。もしかして、私がちゃんと韓国に行って頑張ろうって本当に実行できたから亡くなったの?遺影の前で正座をすると、涙が流れてしまうようになった。今持ってるもの全部放り出して悲しんでいたい。ばあちゃんのことをどれぐらい想ってやまないか、伝える言葉がこの世にはないから、この気持ちはずっと赤ちゃんみたいにばあちゃんのほうへまっすぐ向かっていく。

 関空までの車はずっと悲しい、寂しい、私もばあちゃんのところへ行きたい、研究やめて、ばあちゃんと永遠に暮らしたい、そんなことばかり。またしても車に乗るとすぐ寝てしまうが、夢の中でも湿って重たくなった風に揺られてる。24年前に私が生まれたとき、ばあちゃんから受けた祝福を想像すると死んじゃダメって思える。多分、喜んで大事に大事に抱きかかえてくれていた。見なくてもわかる。それだけの理由で立ってる体でいい。生きてるだけで偉いとかよく言うやん。そんなら、ばあちゃんから受け取ったものにいまだに縋ってこれからも立ってるだけの体でも文句言うなよ。私はこれでいくから、と世間で流行りがちな温い肯定に苛立つ。良い記憶ばかりだ。生きてるのは生まれて運が良かっただけで何も私の努力じゃない。私が生まれてしまったばかりに自分の時間が減った人もいる。みんなで、生きてきたのに生きてる本人だけ褒めている雑さに腹がたつ。その「みんな」という何かしら支えてくれた人がいないまま生きてきた人はいない。感情じゃなくて論理的にそう言える。ばあちゃんが病衣や施設で寝たきりだったとき、「退屈?」って聞くと、頷いたことがあった。物も持てないから本も読めない、テレビも自分で点けられないから当然そうだろうけど、私はばあちゃんが生きて、居るというだけの事実に保たれていた心があった。

 ばあちゃんと話せなくなった時、父も母も驚いていたけど、いや私も驚いたけど、ああ話せないと思ったことなんて一度もない、それくらいよく見てくれてたし、よく見てきたでしょう。話すって言葉だけが方法じゃないから大丈夫だった。そうは言っても、今の萎れた私を叱るブチギレた悪霊でも良いから化けてまた会いたいんだけど、どうだろう。というか何これ定本作業日記?淡々と作業日誌にしようと思ってたけど想像と違う。けどこの定本作業をしていない生活部分を消す理由も今もってない。

 こうして10月24日、無心で出国審査、手荷物検査、搭乗まで済ませて、ふと見たスマホにはばあちゃんと私がこちらを見つめる写真がいくつかあった。ぎゅうぎゅう詰めの格安飛行機のなか人目も気にせずぼろぼろ泣く。来世、また会いたい。そう思う度、私はばあちゃんと一緒に料理できたらいいなって、ある国の厨房でステンレスの深い鍋にお玉がカチャンカチャンとぶつかって、フライパンに油をしいて何か野菜を炒める音が聞こえてくる。私とばあちゃんは人間なのか、野菜なのか、わからない。明るい厨房に光が乱反射して眩しい。美味しそうな匂い。ばあちゃんが得意な料理がなんだったか思い出せないけど、私はばあちゃんの握ってくれる俵形のおにぎり。温かいご飯に塩が効いていて、大森屋の個包装された味付おかずのりでくるっと巻いて食べる。私の小腹が空いたとき、勉強をがんばったとき、なんでもないときに出てくるから、ばあちゃんが私をよく見ていてくれている味も相まって溜め息が出るほど美味しい。その厨房が想像なのか未来なのか過去なのかわからない。私には現世のことしかわからない。覚えてなくても、ばあちゃんに叩き殺される蚊でもいいからまた会いたい。夕方の飛行機は皆眠そう。飛行機が到着して出国審査などは冷静沈着、淡々と進められた。


ばあちゃんが最後にみていた景色
私とばあちゃん。潮干狩りか何かをしている。

 日本からインスタント味噌汁とスープと資料と本を持ち帰り、パソコンの充電器とケースとばあちゃんを置いてきた。また会えないかなあ。また会いたい。ばあちゃんが死んで、今何でも、どうでも良いって感じなんだけど、私が生まれたときにくれた祝福、ずっと愛情に満ちた眼差しで黙ってみてくれていたこと、そういう私が明瞭に見えていなかったことがきっと山ほどあって、するとばあちゃんに愛されたことが私の人生でもう最大の賞賛と幸福だったと言い切りたくなる。これ以上のことは悔しいから要らない求めてない。

 友達が家族に愛されているのを見るのが、私は異常なほど好きなのはそこにばあちゃんの影を見るからなのかもしれない。ばあちゃんと居る時の記憶は幸せばかりで、離れて気づく有難さなど愚かしいし無いけれど、当時の私を恨むほどに羨んではいる。

 それから平気で1時間歩いて公園に行き、散歩を毎日するようになった。そこで日記を書いて体力、精神力、頭脳を使い果たして泣く。悲しむ体を慰めるみたいに虐めている毎日である。生活が続いていく。巻き込まれていく。


 定本作業は、定本作業だけで成り立つのではないというテキストとして何も削らず初動の熱で書いたままに掲載しよう。


二〇二三、一一、三〜四執筆。二〇二三、一一、四更新。

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