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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五十九回〉

二〇二四年八月九日

 今日は9時に起きて、ムンク展を見にいった。
3時間ほどかけてみて回った。正直、初期〜中期作品が面白かった。
美術館を出て、銀行へ。300万ウォンまでしか引き出せないポンコツコースの利用者なので、また月曜日に銀行に来て全額引き下ろさなくてはいけないらしい。
そして、よりによってウォン安が進んでいて腹立たしい。金が増えると思って勤労したというのに…減ることがないのを祈って月曜日に換金しに行く。

 帰って、風呂に入って寝て、ご飯を食べながら映画をみた。何があっても大体の日は映画を観る。今日は『夜明けのすべて』。大勢の人が2024年上半期ベストに入れていた映画だったが、それには文句ないねという素晴らしさだった。

 映画のことも展覧会のことも色々書きたいけど、明日は山登りに行くのでもう何も書きたくないし、書くべきじゃない、早く寝たほうがいい。寝る。寝てる間にドル暴落しろ。

二〇二四年八月一〇日

韓国の雪岳山に登ってみたいとずっと思っていた。韓国の山はとて荘厳な雰囲気で、人を寄せ付けない雰囲気がある。それをフィルムカメラで撮ってみたかったのだ。けれど、雪岳山に行くまでの交通費が少し高いのと、面倒になってしまったことが起因となり結局いけず終いになった。
そこでソウルにある北漢山に行くことにした。北漢山の標高は836メートル。私が登るのは仏光駅近くから出発する、標高370メートル족두리봉(ジョットゥリボン)コース。ルートや所要時間などを下調べして向かった。朝7時起き。バイトしていた時よりも早起きだ。

 一人で登山に行くのは危ない危ないと聞いていたので内心怯えていたが、登山に来ていオジサマ、オバサマはたくさんいたので、後ろからついていくことにした。
 8時半ごろだったが、汗だくだく。暑すぎる。山の中に入っても大して涼しくない。木一つ一つに葉が生い茂って、緑の天井が作られている。しかし足元は岩、岩、岩。登りはいいが、下りが難しそうな山だった。そんな山をニューバランスの運動靴で登っている。
 韓国は岩山が多い印象だ。北漢山も完全に岩山だ。土や砂利はあるが、登山道のほとんどが岩。登山道と思しきルートは、それとなく道のような雰囲気を醸し出した岩が並んでいる。だが、ふと気を抜くと道から逸れてしまうほど曖昧な登山道だった。
人についていきながら登山をしていたはずが、写真を撮りながら進んでいるといつの間にか一人になっていた。案内表示がほとんどなく、道に迷いかけていたらおじさんが下山してきた。
「暑そうだね」と言われた。その他の人も登山装備だったが、私は普通のTシャツとチノパンみたいなのを履いていたためだろう。暑い。道も教えてくれた。おじさんとすれ違ったのが登山開始から20分くらい過ぎた地点だったろうか。
「頂上までどれくらいですか?」と聞くと、
「15分くらいだよ、今ここは3号目。ファイティン!」とのこと。

 15分か、完登行ける!体力もある!
写真も撮りつつ、休みつつ、ほぼほぼロッククライミングな登山を続けたが、私はおじさんとすれ違ってから10分ほどで登山をやめた。頂上と思しき地点は目前だったが、身体のどこからか(これ以上は登らないほうがいい)という声が聞こえた気がした。写真も撮りながら、休憩しながらだ、ゆっくりいけばいいじゃない?と自分に言い聞かせて数十歩足を進めたが、やめた。
 完登目的じゃなく、写真を撮りたい、景色が見たいというのが目的の登山だった。景色が一番綺麗なところは過ぎた。潔く諦めて、さっき登ってきた道を下り始めた。
 私は一度歩いた町は必ず覚えてしまう。帰る時も、次そこにいく時もマップなしで行ける。けれど山は別だった。さっき来た道を下りているはずなのに、見覚えのある景色がない。同じような景色の中で少しずつ違っている山道を、逆の方向から見て下りるのは至難の業だった。下りても、下りても、見知った道がない。しかも自分が下りている岩肌は、人が足をかけるような場所もなく、ツルツルしていた。私がこの山の管理者だとして、そんなルートを案内するだろうか。いやしない。何か、どこかで間違えている。つるつるの斜面を下りているとき、私は自分の身体が発した声の正確さに驚いた。膝が震えていた。体がかなり疲れている。そりゃそうだ。普段、映画館と駅の往復くらいしか歩かない私が、いきなり標高370メートル登山だなんて。残り5分で頂上だった。それを欲張らずに諦めてよかった。一歩一歩、地面に足を置くたびに、膝が震えているのがわかり、(ここに足を置いて、その次はここに足を置こう)という安全に下山するための思考回路も鈍っているのもわかる。自分が自分の身体の声を聞く訓練を普段からしている成果だけは証明された。
ひとまず安全なところに戻って、深呼吸。あたりを見渡して、耳を澄ませてみた。10時ごろ。まだ登山客はいるはず。複数人できている人も多いから話し声が聞こえないか。そう思って、しばらく耳を澄ませてみた。

聞こえた!!聞こえた方向に進むと、夫婦が座り込んでいた。
「こんにちは、どちらから来られましたか?」と質問してみる。
「あっちから来たよ、下にまーっすぐ下りて、右方向に行けばいいよ。ところで君は、登る道知ってる?」
「登る道…ちょっと私もよくわからなくて、すみません。ありがとうございます!!」
と言って、その言葉通りに下山していく。しかしまだ登山道らしき歩きやすさはなく、あたりはつるつるすべすべの岩肌ばかりだ。あの夫婦は40歳以上だと思うけれど、この道をきたのか…?とりあえず立ち止まって、また耳を澄ませてみる。すると、また声が聞こえた。さっき教えてもらった通りの方向だ。いけいけ。ずんずんと進んでいく。「でもモウリちゃん、こういう時が一番危ないんだから落ち着いて?ーはい!」と会話しながら向かう。柵が見えた。この柵はさっき見た。「この先侵入禁止」と書いてある柵。つまりさっきの夫婦も私も、登山ルートから大きく外れていたことになる。唖然とした。一人で山を登るのはまだいいけど、下山のときに一人は危ないかもしれない。もうやめておこう。それからは知っている道だった。いつも通り初めての町の帰り道のようにスイスイ下る。膝が震え続けるのを感じながら、自分の身体の声と、それを素直に聞いた自分に感心するばかりだ。
思ったより楽しくなかったな。岩山はロープウェイで登りたいし、自分の足で登らなくてはならないなら土の地面がいいと思った。やはり私は土の人間だった。
帰ってすぐ風呂、爆睡。映画ももちろん忘れずに観た。


二〇二四年八月一一日

今日の予定。昼まで寝て、午後4時ごろに家を出て、明洞でインドネシアのお金を両替。明洞の百貨店でお土産の韓国海苔を買う。そのあと韓国滞在中に行く最後の映画館へ。

 インドネシアのお金は、掃除の仕事の時に拾った。しかし両替所で換金できるのは、ドル、円、元、ユーロあたりばかり両替所探しに手間取った。8000ウォンにしかならなかったが、この元インドネシアのお金で韓国海苔が買える。
百貨店で買う海苔は決まっていたので時間はかからない。
レジに並んで会計を待っていると、後ろから来たオバサンがレジの台にバン!と品物を置いた。え?私が並んでるのが見えてないのか?と思って「私先並んでますよ」と言ったら「先にすればいいでしょ、何よ」みたいなことを言われた。このババア、ザ・韓国の嫌なババアだな…いちいちキレやがってよ…と思って鼻で笑った。苛立つ一方で、バイトしていた時に一緒に働いていたおばちゃんもこんな感じだった。ここまで嫌な感じではなかったけれど、部類は一緒だったなぁと懐かしくなった。

 そして映画館に向かう。韓国滞在中、いろんな映画館に行って、いろんな映画をみた。最後に行くのはソウルアートシネマだった。ここは毎月特集を企画し、国、年代問わず上映してくれるため、サブスクでもレンタルでも観られないクラシック映画をここでいくつも観ることができた。企画のセンス抜群で、音響も悪くない、席数も多くて、チケットカウンターが異常に暗い。大好きな映画館の一つだ。次に韓国に来る時もここに来たいと思う。
現在はホラー・オカルト映画特集を開催中。日本からは、『回路』(黒沢清監督、2001年)、『東海道四谷怪談』(中川信夫監督、1959年)、『HOUSE』(大林宣彦監督、1977年)、『雨月物語』(溝口健二監督、1953年)を上映する。ちなみに来月2024年9月からは増村保造特集を開催予定とのこと。いいなあ。行きたかったなあ。

私は、ホラー・オカルト映画特集で
『アッシャー家の末裔』(ジャン・エプスタイン監督、1928年)
『ヴァンパイア』(アピチャッポン・ウィーラセタクン監督、2008年)、
『Ghost of Asia』(アピチャッポン・ウィーラセタクン監督、2005年)
『Haunted Houses』(アピチャッポン・ウィーラセタクン監督、2001年)

を鑑賞し、今日は、
『悪魔の夜』(ジャック・ターナー監督、1957年)
を観た。

 韓国で映画館に通い詰めることができたのは、ひとえにその料金の安さからだろう。日本ではこうはいかない。毎週映画に行くことなどできなくなるだろう。韓国にいる間、映画館に行くこと、映画館で映画を見ること、そこで経験することに、自分の身体の最深部が支えられるのを感じた。大好きだった映画が、自分の人生になくてはならない存在になった。映画がそうさせたのではなく、映画館という存在がそうさせた。生活や研究、自分の精神をなんとか持ち堪えさせることに必死だったとき、映画館で映画を観ることで、自分の人生を全部置き去りにして、その2時間だけは誰かの視点を借りて誰かの人生に移ることができた。こういう生存方法があっても良いのだなぁと思った。また帰ってくる道がわかるのならば、別に自分の人生を生きないという時間があっても問題はなかった。
映画館たち、映画たち、私のそばにあってくれてありがとうー。
これからもよろしく頼む。

二〇二四年、九月、一〇日


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