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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第十七回〉

 「이상 소설 연구(李箱小説研究)」(1999年、소명출판)は絶版だった。
 韓国の大規模書店교보문고に行っても在庫なし。店員さんに出版社まで電話確認してもらうと“絶版”という言葉が言い渡された。ネットならあるかもしれないよ、と店員さんに言われ、同じ下宿の人に頼み込んで、二回もインターネットで中古本を購入しようとした。しかし配達遅延を何日か経てやっと連絡がきたと思えば在庫がないという連絡だった。私は、原典資料収集だけでなく、ここ20年前後で出版された本の入手にも苦労するのか?終に、手元に置いてゆっくり読むことは叶わず、時間があるときに国立中央図書に通って、デジタル資料として読むことになった。仕方ない。

 それにしても絶版という音の響きに慣れない。毎回怖い。毎回、上空から何十トンもある石門が降って落ち、轟音と共にしばし大地を揺らし続けるのを聞き取るような感じ。
 「이상 소설 연구」はデジタルで読んでも問題ない。国立中央図書館では難なくみられる資料で楽。ところが合計400頁くらいあって絶句。

 私は、大学のゼミで教えてもらった方法で卒業論文に必要な文献を読み、今もそうやって本を読むことが多い。大学三年生の時にゼミの担任教授がこう言った。


「気になるな、これはおかしいな、おもしろいな、批判できそうだなと思える箇所が本にあったら、その箇所の文言を書写するといいですよ。本のタイトルや頁番号などの書誌情報をメモし、自分がその文言に引っかかった理由などを論理的に書いていく。なんか気になるなあ、というだけでメモしても良いです」


 私は、この方法を大学三年生時から今まで続けている。書写作業だけでもかなりの時間がかかるが、後に論文執筆において最も重宝した道具になったし、私の遺品として見つかったとしても制作物として面白い。
本を読む気が起きなくても、“気になる”、“なんかいいな”と感じる感覚はあるから、書き写しているうちにやる気が出てきたりもする。やる気がない時に一番良い方法は、タスクのカロリー計算をして、軽作業からとりあえずやってみることだ!やる気はやらないと出ない。

 そうやって12時ごろまでに30頁進んだ。よく進んだ方だと思うが、眠気により首をがくんがくん揺らしていたその時、手元に置いていたスマホにGmailの通知が来た。どうせ迷惑メールかS I Mカードの会社か銀行だろと思ったが、表示されているのは見知らぬ個人名。東京都在住とのことなので、仮名を「東京」にしておこう。彼は以降、私の作業仲間となる。

 メール全文を載せてしまいたいくらい嬉しい報せだったが、できる限り要約してみる。

 東京は、仕事中に暇な時に青空文庫をよく眺めていたらしい。そこで彼は李箱のテキストと出会ったそのテキストらに衝撃を受け、いつか全集を編纂してやろうと、東京のどこかで思い立ったのだそう。

しかしハングルも読めるようになったばかりで、
どうすれば良いかもわからず「李箱 全集」と検索したら、このnote記事を見つけ、見守り人でも応援団長でも友達でもいい、けれど、図々しいとは承知しつつも作業を手伝わせてほしい。
とのことだった。

私は、ネット上で会った人に関してはとにかく文章構成と日本語の読みやすさ、それと文章構成しきれなかった情をよくみる。べつに審査とか試験ではなくて、ただ単にその人に関する情報をキャッチするしかないから、そうしているだけだ。 

東京の文章を一言で表すなら
「素直でぐちゃぐちゃだけど丁寧に構成された文章」だと思った。
素直でぐちゃぐちゃというのは、貶しているのではない。文章構成しきれなかった情が書かせた文章そのものでありながら、読みやすい。情の混沌さが、混沌のままに整理されているので読みやすい。

どうせ誰も見ていないだろうな〜と思いながら更新していたこの記事に、「李箱のテキストから私へ」という予想だにしない経路で辿り着いてくれたのも不思議だった。
私が李箱のテキストへ現代の人たちを連れていくんだという意識はどこかにあっても、その逆経路は知らない。誰も見てないと諦めつつも更新し続けた記事たちは、東京のおかげで褒めてあげてもいい事象に様変わりした。


「できれば手伝わせてほしい」
という文章を見た時、思ったことは「O K 」だった。本当にそれしか思わなかった。
快諾などではなく、ただ承知した感じだった。
やることはいっぱいあるし、日本での調査も十分とは言えない状態で韓国にきてしまったので、日本での原文所蔵情報をまだまだ集めたかった。
一人ではできない作業だとずっとわかって、ずっと一人でやってきた。
それにこの良い文章を書ける人なら、大丈夫なんじゃないか。
万が一裏切りや関係の悪化があってもこの人なら最後には許せるかもしれないと思った。欲しい人や物事とちゃんとつながろうとするなら早いほうがいい。私は取り急ぎのメールを10分くらいで返信した。その早さに東京は、ちょっと引いていた。


その夜。
私の出発点である卒業論文とそれを読み通すのに必要な資料を送信。
そして一番重要で、一番伝えるのが怖かった
「この定本作業における報われることの少なさ」
について伝えた。以下、そのときの私の文章だ。


 手伝いたいというお気持ち、応援したいというお気持ちも、友達になりたいという言葉も、とても嬉しく拝読しました。本当にありがとうございます。

 結論から申しますと、私はどれも大歓迎です。今すぐにでも、私がやろうとしていることを共有し、日本で調べていただきたいことが勢いよく思いついているような状況です。
 ですが正直に申しておきますと、「原典を探す」という作業は本当に大変な作業です。うまくいかないことの方が多いですし、自分が教授や院生でないという事実により資料閲覧を妨げられることも多くあります。お金にもなる予感もないです。でもできることを、できるようになる方法を考え続けて毎日何かをやらなくてはいけない。大変です。
 なのに私は、割と本気でやれるところまでやろうとしています。もちろん東京さんに、私と同じペースで同じことをやれ、同じ熱量でやれ、などとは強要しません。
 ですがその道を、多少なりとも共にするとなれば、楽しくやりがいのあることばかりではないと思います。現に私も、この好奇心に新卒就職ルートを断たれて研究を進めている割に前進ばかりの日々ではありません(面白くてやってるので地獄のような日々ではないですが)。

 何を言いたいかと申しますと、
 「それでも手伝いますか?」ということです。

 私はぜひ手伝ってほしいし今すぐに仕事を振れるくらいなのですが、やはり調査の上で降りかかる困難やつらさを隠して、「手伝ってください!」とはどうしても言えなくて。
 東京さんの生活や人生がもし著しく削られるのであれば途中で降りてもいいですし、このメールの返信において拒絶しても構いません。
無視しても私は残念に思うだけで怒ったりはしません。友達になるだけなりましょうという道も、私は歓迎できます。
 ですがもし、「それでもやってみたい」とおっしゃってくださるなら、多分この先には大勢の人が通り過ぎてしまうような微細な入り口から、文学を超えて「テキストとは何か」「読むとは何か」「私たちは本当にテキストを読むことができるか」、そんな呼び声が聞こえてくるような瞬間にきっと何度も出逢える、ほんとうに面白い世界が広がっていると私は思います。私は今もそうやって、面白がって作業を続けています。

 東京さんは、どうされますか?

一一月一四日執筆、一一月二六日更新

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