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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第十九回〉

 今日は、非常に面倒臭いが重要なことを記述しておかなければならない。

 11月22日更新の「定本作業日誌—『定本版 李箱全集』のために—〈第十五回〉」において、原本ではないが原本の影らしき線を紙の上に見つけたと記した。だがよく考えてみたら、その線は確かに原本が紙のサイズより小さいがために映り込んでしまった線で、印刷で縮小したり拡大している可能性も考えられる。「紙のサイズより原本は小さい」ということがわかったにすぎなかった。完全に原本だという確信があったわけではないが、私はぬか喜びの大慌て野郎だ。原本の影らしき線を見つけたとて、サイズはいくらでも変更可能だったのだ。


 その次の日、東京が東京で原本を見つけた。
東京とは先日現れた作業仲間の通称である。彼は、東京文化財研究所という場所に『朝鮮と建築』の原本があるという情報をつかみ、寝坊したらしいがしっかり原本を確認し、誌面縦横のサイズを測ってきてくれた。そのサイズは、昨日私が(ワー!原本のサイズだ!)と思い込み嬉々として測っていた数値と1.8mmの差があった。危ない。東京がいなければ私はこれを原本のサイズかと妥協して作業を続けるところだった。ありがとう、東京と深く感謝しつつ、原本をみられる羨ましさと動きのスマートさに歯軋りしてしまいそうだった。


ソウル大での作業後、帰り道。
この帰り道が非常に気に入っている。


 日本にいる間は、関東圏はまったく調べられなかったことが今になって悔しい。もっと十分に準備して来ればよかった。焦りすぎていつも大事なことを見失うなあ/というか韓国まで来た意味あったのかな/全部日本中探し回れば見つかる資料だったりして/そうなったら本当に私はここまで何しに来たんだろう/というか今までの時間なんだったの全部無駄だった?
などどベタついた思考に絡め取られていった。東京はなんとそのメンタルケアまで担って励ましてくれた。あっ、そうだ。この作業は1日にどれくらい作業が進むかも大事だが、それと同等に大事なのはどうなっても自分自身を励まし続けることだった。ハッとして、自分がここ一ヶ月で行ってきた作業が無駄にならない、リサイクルできる方法を考えた。「『朝鮮と建築』に掲載されている李箱のテキストデータをつくる」ということは、この一ヶ月この世の誰よりも私が考えてきたことだから、解決策が出るのは意外に早い。
解決策はこうだ。

 東京が東京で行う作業は、
①東京文化財研究所に出向いて誌面サイズを計測 ②複写を綺麗に行う ③私が指定した箇所(一頁あたりおよそ4箇所)の計測を行うこと を『朝鮮と建築』に掲載されていたテキスト19作分の作業を行うこと

 私が韓国で行う作業は、
① 『朝鮮と建築』影印版のサイズを計測し続ける ②計測と同時にテキストデータを作成する

この際、私が計測してきたデータは無駄にならない。影印版を作成したとき、その編纂者らは、誌面サイズに変更を加えたとしても、原本の行間の広さや文字のサイズをわざわざ編集して印刷する必要はないはずだ。ただ単に縮小倍率を動かしただけだと、私は想像し、東京もそうだと思うと助言してくれた。

 ということは、東京が測った正確な誌面サイズに対応できるように私はテキストデータを正確に作成し、あとは誌面サイズに合わせるだけでいい状態にまで仕上げればいいのだ。

 わかりやすくいうと、
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》の複製タペストリーを作る時、わざわざひまわりを右に動かしたり、ひまわりの花びらを減らして印刷する必要はない。倍率だけ変えて印刷するはず。だから、影印版のサイズを測ってテキストデータをつくっても、あとは倍率を変えればいいのではないか?というのがわれわれの作戦である。

 うまくいってくれ。
 無駄にはならないと言いつつ、ソウル大学建築学科資料室は土日休みなので、現在結局国立中央図書館に通いつめて計り直しながらテキストデータを作成している。つまり月曜日を「待てなかった」ということだ。そのやり直しのなかでも、サイズが合わない、やりづらいなどの改善点が次々出てくるので、私の計り直し回数は優に6回を超えているだろう。要領が悪いのか、思考が少なく決断と行動が先走ってやたらとその回転が早くなってしまったというのか、いずれにしても、必要以上に動いている。

 原本をみつけるのが私で、それを元に作業できたらそれは一番美しいかたちだ。そりゃ当然だ。しかし、別に原本を見つけるのが私でなくてもいいと思う。もう私には原本、原典という言葉を使いながら何が「原」なのかわからなくなっている。資料に振り回されて、原典もどうせ複製だから、他の原典と比べたらサイズ違うんでしょ?とかなり引いた目線で原典の崇高さを眺めている。


 テキストを作成しながら、文字がただの何かしらのかたちにみえる。ピクセルの積み上がり。文字は全部四角だ。文字は全部四角だったんだ。四角の積み上がりを、文字にみたてて、わたしたちはコミュニケーションをとってきたのか?あるいは、インクの滲み。インクの滲みは線だ。線が絡まってできた紙に黒い液体が染みて文字になっている。文字は紙の網目だ。私は何で、何を書いているんだ。文字は、フォントどころか媒体によってまったく別のかたちをしているんじゃないか。文字は媒体に書かれ、印字されるのではなく、媒体によってその媒体ごとの文字になるのではないか。四角、線、網目、痕跡、点…それは文字が決めることでも、編集者が決めることでも、作家が決めることでもない。媒体によって決まっていることだ。
 私たちが文字を読めると思うのは、経験と類似性の中でぼやあんとした図形をそれっぽく作り上げているからか?文字。わからん。意思疎通のためのツールなのに、意思疎通を難しくさせる文字。なんだこいつらは。


二〇二三年、一一月、二十七日執筆・更新。

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