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大人になってから読む、バーネットの「秘密の花園」、「小公女」

金井美恵子の「噂の娘」を読んで、バーネットの「秘密の花園」を、そしてついでに「小公女」も読み返したくなり、どちらとも、光文社古典新訳文庫で読んでみた。

昔読んだポプラ社文庫の「小公女」は、子供向けにかなり大幅にリライトされているのだろうな、と思ってはいたが、やはり、そうだった。
岩波少年文庫で読んだ「秘密の花園」はそれほどでもなかったのだが、「小公女」にいたっては、子供向けではないと判断されたのであろう、あちこちがカットされており、自分が小学生のときに読んだものは、あれは、「スカスカの小公女」だったのだ。

まあとにかく、今回、長い時を経てこの二冊を読んでーそれも、児童文庫ではないものをちゃんと読んでみたわけだが、なかなかおもしろかった。

両作品とも、主人公の少女が当時イギリスの植民地であったインドでの暮らしを経験している、という共通点があり、時代とはいえ、メアリがインド人を口汚くののしるところなどは読んでいてやはり楽しいわけがない。
メアリは性格がねじくれた嫌な女の子、という設定になっているがセーラのほうはどうかというと、きれいでやさしい心の持ち主、ということになっている。
しかし、その、きれいでやさしいお姫様のようなセーラちゃんは、自分の贅沢な生活はインドという国から富を吸い上げて成り立っている、ということを当然、考えたりはしない。
彼女は学校に入学する前、父親と一緒にあちこちの店をまわるのだが、その買い物の内容は、というと、高価な毛皮で縁どりしたベルベッドのドレス、レース地のドレス、刺繍をしたドレス、ダチョウの羽飾りついた帽子、毛皮のコートやマフ、手袋、ハンカチ、シルクの靴下、そして、立派なお人形さん・・・、といった具合なのだ。のちに思いがけない不幸がセーラを襲うが、それを乗り越えて、最後、インドのダイヤモンド鉱山によって彼女は大金持ちになれてしまう。
セーラは逆境におちいっても、「心の中だけはプリンセスでいようと」強くいるよう努力をし、この彼女の姿勢がまた賞賛されたりするわけだけど、ふーん、植民地と植民地の人間のことなんか頭にない、自分(たち)にとってずいぶん都合のいい「お姫様像」ですね、と言いたくもなる。

大人になると、このような読み方もできるようになるわけだけど、それでは、「子供の頃に読んでいたものを楽しむことは、もう不可能なのか」といったら、そんなことは、ない。
「大人」として、頭のほうではいろいろ考えながらも同時に、物語のエッセンスを掬い取って楽しむ、ということも、じゅうぶん可能なのだ。
それと、やはり、この二つの物語に、読み手の心を惹きつけるものがあることは否定できない。
「小公女」でセーラが、学校の小間使いとして虐げられる日々を乗り越えていくさま、「秘密の花園」でメアリとコリンが閉ざされた花園を生き返らせ、そして同時に自分たちの心と体も生き返らせてていくその過程は、とてもよく書けていると思う。

今回、気づいたのは、バーネットが、セーラやメアリ、そしてコリンの「内面」、そしてその「変化」を詳細に書いている、という点である。
セーラは、父親の死によって学校の小間使いとして働かされることになるのだが、そのとき彼女は、お得意の「空想ごっこ」によって気高さを失わないようにつとめる。セーラは、囚われの身となったマリー・アントワネットに自分の姿を重ね合わせることによって、自分を保とうとする。
なんとしてでも、自分自身を失わないようにしようとするその様子は、周囲から見れば常軌を逸している、と思われかねないほどの、集中ぶりである。

向いの家に住む謎の紳士とその召使ラム・ダスの計画によって、屋根裏のセーラの部屋が美しく変化させられたとき彼女は、自分が頭で思い描いていた「おとぎの国」が出現した、〈魔法〉が降りてきた、と大喜びする。

「(略)まるで、自分がおとぎ話の主人公になったみたい。何でも思いどおりのものに変えられる力をもらったみたいな気がするわ。」

このことによって元気を取り戻したセーラを、周囲の者は好奇の目で見るが、「不思議な物語の世界」に生きているセーラはそんな彼らを、何も知らないからだ、と心の中で笑う。

また、「秘密の花園」でコリンは、メアリやディコンと交流を持ち、花園をよみがえらせる作業に没頭するにともなってどんどん心と体の健康を取り戻し、そして、こんなことを口にする。

「もちろん、この世界にはたくさんの魔法があるにちがいない」ある日、コリンは聡明な口ぶりで言った。「でも、みんな、魔法がどういうものなのか、どうやったら魔法を起こせるのか、わかっていないんだ。たぶん、魔法の第一歩は、『きっといいことが起こる』と口に出して言ってみることだと思うんだ。実査にそういうことが起こるまで。ぼくは、それを実験してみようと思う」

「小公女」でも「秘密の花園」でも、どちらでも、「魔法」という言葉が使われていることに気づく。
しかし、バーネットがここで書いているのは、非現実的な「魔法」ではなく、内面の力を強化すること、自分自身の世界を確立することによって起こる、変化のことである。
セーラやメアリ、コリンが起こす「魔法」とその「変化」は、なかなか感動的だし、ポプラ社文庫の「小公女」の解説の文章をちょっとアレンジして書くならば、「セーラやメアリ、コリンの生き方は、みなさんの胸をうたずにはおかないでしょう。」といったところだ。

大人になって、子供の頃に読んでいたものを読み直すのも、いいものである。と言うより、読み直したほうが、いい。それも、「子供向け」にリライトされたものではなく、原作をそのまま翻訳したものがいい。それも、できれば、光文社古典新訳文庫がおすすめ。








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