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コリン・デクスターの小説を読んで、モースにふりまわされる。

シャーリイ・ジャクスンの「処刑人」の解説で深緑野分によって紹介されていた、少女の失踪をテーマに書かれた小説二冊、「キドリントンから消えた娘」(コリン・デクスター ハヤカワ文庫)と、「失踪当時の服装は」(ヒラリー・ウォー 東京創元文庫)を読んだ。
ちなみに、この二冊、どちらも原題は「Last Seen Wearing」である。

シャーリイ・ジャクスンの本の解説で紹介されていた、という理由だけで読んだため、比較するのもなんだが、「キドリントンから消えた娘」のほうが、おもしろかった。
しかし、モースのシリーズを一冊も読んだことがなかった私は、彼の推理の仕方にふりまわされた。
推理、というより思い込み?決めつけ?のような論理で捜査を進めてゆくのだから、一緒に仕事をしているルイス刑事はさぞやストレスがたまるだろう、と思った。
最後、犯人がわかったときは、やれやれこの人でしたか・・・とちょっと驚くと同時に、ゴールにやっと到着、という感じでどっと疲れが出た。

読後、思い返してみて印象に残っているのは、登場する女性があやしげな魅力を持っている、ということ。
冒頭から、男が誘惑される場面があるのだがこのときの女といい(この時点では男も女も、誰なのかわからない)、そして何よりも、行方不明になるバレリー・テイラー自身が、とても魅力的に感じられる。作中、ほとんど姿を見せないのに(行方不明になるのだから当たり前だ)さまざまな証言から浮かび上がってくるのは、少女・・・というより、一人の、小悪魔的な女性の姿なのだ。
コリン・デクスターは、こういう、不思議な魅力を持った女性の描き方がなかなか、うまいのではないか。
読んでいて、生きているのか死んでいるのかはっきりとわからないバレリーが、姿を変えて小説のあちこちに現れているように感じてしまうことが何度も、あった。それらしき女性が登場するたび、もしかして、あの女が?いや、これがバレリーなのでは?などと勘ぐってしまうのだ。今、彼女がここにはいないからこそ、よけいに、バレリーという少女の存在感が増してくるのだ。

今、手元にはコリン・デクスターの「ウッドストック行最終バス」があり、次はこれを読もう、と思っている。モースの捜査法にふりまわされて疲れた、と言っておきながら、やはり、おもしろかったのだ。
ちなみに、「キドリントンから消えた娘」を読んでいるとき、英国でドラマ化された「刑事モース」で主演したショーン・エバンスの顔がずっと、ちらついていた。ドラマのほうは、モースの若き頃のエピソードを描いたものだが、「キドリントン」には彼の外見に関する描写が見当たらなかったため、結局最後まで、ドラマのほうの「若きモース」が私の脳内で捜査をしていた。

最後に、「失踪当時の服装は」について。こちらは1950年代の小説なのだが、読んでいて、おや、と思ったのは、寮に入っている女子学生がジーンズ姿で学校の外に出ることは許されない、という記述だった。
この時代は、まだジーンズを履く女性は珍しかったらしい。1950年代にフランソワーズ・サガンが女性ではじめてジーンズを履いた、という記事を見かけたところだったので、興味深かった。



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