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自分一人しかいない、世界。「バニラ・スカイ」から、メアリー・シェリーまで。

映画「バニラ・スカイ」には、冒頭、こんな場面がある。トム・クルーズ演じる男性が車を走らせているうちに、街の様子がおかしい、ということに気づく。街に、人間が、見当たらないのだ。それも、一人も。
彼は車から降り、ニューヨークの街を走り出す。しかし、行けども行けども、人一人見当たらない。頭がおかしくなりそうになって、彼は道の真ん中で、大声で叫ぶ。

「バニラ・スカイ」は、スペインの映画「オープン・ユア・アイズ」のリメークである。私はどちらも見て、どちらもおもしろいと思ったが、では、どちらが好きかと聞かれれば、「バニラ・スカイ」のほうをあげる。
その理由として大きいのは、先ほど述べた場面があるから、である。

ときどき、世界には自分一人しか存在していなくて、自分の周囲のの現実は自分が生み出した夢なのではないか、という考えが頭をよぎることがある。
そのためだろうか、やはり、「世界にたった一人残された人間」を描いた作品に、強く惹きつけられてしまう。
たとえば、北村薫の「ターン」や、「ヴィトゲンシュタインの愛人」など。
そういえばメアリー・シェリーにも、世界に疫病が流行って最後に主人公一人だけになるという小説、「最後のひとり」がある。こちらは未読なので、これからぜひ読みたいと思う。

本当に世界に自分一人しかいないのかどうかはともかく、こういった考えがさまざまなイマジネーションを刺激することはたしかだ。
だから、私が今書いている小説には、主人公がそういった状況になった自分を妄想する場面がある。

しかし、ちょっと妙なことがあった。
その箇所を書いていたとき、コロナが流行り出し、そして、近所の店が、食料品売り場など一部を除いて臨時休業に入ってしまったのだ。
街も人通りが少なく、それこそ、「バニラ・スカイ」の冒頭場面のようであった。
私は、自分が小説に書いていることが本当に起きたような気がして、気味が悪くなった。
しかも、主人公が、その妄想の中で自分一人になった理由は何かというと、「奇妙な伝染病が流行って町の人が全員死んだため」なのだ。
そこで私は、町の人がいなくなる理由を、別の理由に書き換えた。自分が書いている小説の、主人公の「妄想」の中のこととはいえ、やはり、どうしても修正したくなったのだ。

ただ、書いていたことが現実になった、というのはこれだけでなかった。
このずっとあとになって、主人公が友人に一流ホテルのティーラウンジに呼び出される場面を書いていたら、私も知人に、お茶会に誘われた。それも、一流ホテルのティーラウンジで、おごってもらったのだ。「ホテル」「ティーラウンジ」「お茶会」という単語で頭がいっぱいになっていたことはたしかだが、まさか、現実になるとは。

今、思い出したのだけど、イギリスの児童文学作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、小説に書いていることが現実になることなど、しょっちゅうあるらしい。
当たり前だが、どうせ現実になるなら、楽しいことだけが現実になってほしいものだ。暗い世界は、妄想や小説の中だけでじゅうぶん。

ホテルのティーラウンジでいただいたミルクティーとケーキは、とってもおいしかった。ごちそうさまでした。
(タイトル画像がミルクティーなのは、こういうわけです)








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