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『黒い羊』/欅坂46の歌詞について考える

普段は乃木坂46を中心に取り上げていますが、今回は番外編として欅坂46の楽曲の歌詞について書いていきたい。

(と言いつつ、『黒い羊』についてはMV解禁当初に書いていたのですが、荒かったので今回大幅にリライトする形で新たに公開しました)

結論から言うと、この楽曲が描いているのは「欅坂46以前」であると思う。

秋元康Pによると、オーディション時に会った際のこのグループのメンバー達は「大人を信用していない目」をしていたらしい。

(ラジオ特番『佐久間宣行の東京ドリームエンターテインメント』出演時の発言。ただし記憶している限りの要約です)

そういった、彼女達の態度ないし内から漏れた精神が後の『サイレントマジョリティー』の着想となり、また以後のグループの"色"を決定づけたそうだ。

それこそ『サイレントマジョリティー』『不協和音』『ガラスを割れ!』といった楽曲群はいずれも「集団への不和、大人(を始めとした体制)への反骨心」、またそれに向かっていく主人公を描いている。

それらを経た8thシングル『黒い羊』。その歌詞を読むと、書かれている内容はあまりにも異質である。

上で挙げた楽曲群と共通する部分はあるが、かつてはそれに正面から向かっていたにも関わらず、『黒い羊』の主人公の態度は実に空虚。

自分を取り巻く世界を認められない、受け入れられないでいるが、あくまで「周囲に対して孤独な自分」を見続けている。これまでの楽曲群に見られた強気な姿勢はとてもじゃないが見留められない。

では、『黒い羊』の主人公は立ち向かうことを諦めてしまったのか。かつては<君は君らしく生きていく自由があるんだ>と謳っていた彼一人がいなくなれば、それでいいのか。

そうではなく、逆であると思う。

『黒い羊』の彼が、後に<君は君らしく生きていく自由があるんだ><僕は嫌だ><邪魔するもの/ぶち壊せ!>と叫ぶようになる。

この楽曲で描かれているのは、それらより以前。

いわばエピソード0を描いたのが『黒い羊』である。

ここからは実際に歌詞を取り上げていく。結論ベースでどんどん進めていきたい。

「『黒い羊』はエピソード0だ」と感じた部分について、順を追って書いていく。

それは例えば以下の歌詞だ。

黒い羊
そうだ僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば止まってた針はまた動き出すんだろう?
全員が納得するそんな答えなんかあるものか!
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしている仲間には僕は厄介者でしかない

サビに用いられている、曲中でも特に印象的なこれのフレーズ。

多数に対する少数である自分自身の”罪”を受け入れ、孤立したその存在を<いなくなればいい>と自ら断じてしまっている。

上述したように、これらは現在までの欅坂46の楽曲で描かれてきた「僕」とは一致しないようにしか思えない。

他者と違う自分自身を肯定している『エキセントリック』

I am eccentric
変わり者でいい
他人の目 気にしない
はみ出してしまおう

自分と同じような存在(「君」)に手を差し伸べようとする『避雷針』

君が気になってしまうよ
面倒臭いその存在
だって誰も理解できない

その不器用さを守るには
僕が盾になるしかない

『サイレントマジョリティー』、『不協和音』に至っては、いずれも『黒い羊』で受け入れてしまっていたことに、正面から立ち向かっている。

不協和音を僕は恐れたりしない
嫌われたって僕には僕の正義があるんだ

初めからそう諦めてしまったら
僕らは何のために生まれたのか?

(『サイレントマジョリティー』の一人称が<僕ら>であることもポイント)

『アンビバレント』は『不協和音』と近しいスタンスでありながら、攻撃的ですらあったあちらよりも、ずっと軽やかだ。

好きだと言うなら否定しない
嫌いと言われたって構わない
誰かの感情気にしてもしょうがない

(それでいて、「他者の存在もまた必要である」という思いが芽生え始めている)

いずれの楽曲も、表題曲を含め特に「欅坂46」を象徴するものばかりなはず。

それらが示した姿勢、彼女達が辿り着いたその境地を、ハナっから無かったことのように覆してしまう『黒い羊』が最新の<僕>を描いているわけがない。

当時の最新曲であるからと言って、常に最新の「現在」を指しているわけではない。むしろ上で挙げた楽曲たちこそが『黒い羊』の先にある未来と考えた方が自然なように思う。時系列が逆なのだ。

『黒い羊』の未来がこれらの楽曲であると歌詞から読み解くことが出来る。つまり、既存曲にこれから繋がる要素を見出すことが出来る。

まず挙げたいのは、『黒い羊』の<僕>は曲中で時間経過とともに(ストーリーが進むとともに)成長・変化している点だ。一度挙げた部分も改めて載せてみていきたい。

冒頭で<僕>はこのように言う。本人の"こだわり"や価値観が見え隠れしているが、それは時に他者との不和をも生む。

信号は青なのかそれとも緑なのかどっちなんだ
あやふやなものははっきりさせたい

夕暮れ時の商店街の雑踏を通り抜けるのが面倒で
踏切を渡って遠回りして帰る

その居心地悪さを吐露しながらも、自分自身が<黒い羊>であることを認めてしまい、声を上げることを諦めている。

放課後の教室は苦手だ
その場にいるだけで分かり合えてるようで

話し合いにならないし
白けてしまった僕は無口になる

誰かがため息を吐いた
そうそれが本当のことだろう

黒い羊
そうだ僕だけがいなくなればいいんだ

No No No No
全部僕のせいだ

しかし中盤、その違和感に気付き出し、自らの意思を露わにし始める。

真っ白な群れに悪目立ちしてる
自分だけが真っ黒な羊
と言ったって同じ色に染まりたくないんだ

それならやっぱ納得なんかしないまま
その度に何度も唾を吐いて
噛み付いちゃいけませんか?

そして終盤に差し掛かり、その意志を確立させる。大サビに当たる箇所では、これまでと違う言葉を発するようになる。

その前段として挿入された間奏は、これまでのシリアスなサウンドから一転した、煌びやかなコーラス。さながら誕生を祝福する聖歌だ。

またミュージックビデオにおける該当箇所では、平手演じる<僕>が冒頭から手にしていたが取り落としていた彼岸花を、無垢だった頃の<僕>にもう一度手渡される。

「誕生」「再生」を彷彿とさせるこれらの演出。

MV内で”死”のメタファーとして扱われていた彼岸花の花言葉を調べると、「悲しき思い出」「あきらめ」「独立」「情熱」とある。※出典:彼岸花の花言葉(誕生花、英語、季節|花言葉-由来

まるで、『黒い羊』の前半部と後半部(またその変遷)を内包しているような言葉たち。

そして、再生し”情熱”を再び手にした<僕>は自らと向き合い、自己を確固たるものにし、強い意志を高らかに宣言する。

白い羊なんて
僕は絶対なりたくないんだ
そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ

また自己を確立した「僕」は、自分の正しさを胸に、周囲の人々や環境そのものに立ち向かい始める。

自らの真実を捨て
白い羊のふりをする者よ
黒い羊を見つけ指を差して笑うのか?
それなら僕はいつだって
それでも僕はいつだって
ここで悪目立ちしていよう

<自らの真実を捨て/白い羊のふりをする者よ>という箇所が示すもの、これは明らかに「物言わぬ多数派」=『サイレントマジョリティー』だ。

続く<指を差して笑うのか?>という問いかけがまた『サイレントマジョリティー』にあった<Yesでいいのか?>という訴えを思わせる。

また最後の<ここで悪目立ちしていよう>という他者と違う自分自身を肯定する言葉は、紛れもなく『不協和音』『エキセントリック』。<不協和音を僕は恐れたりしない><変わり者でいい/他人の目気にしない>と意志を同じくしているフレーズだ。

そしてこれらが示す<僕>の姿勢そのものが『ガラスを割れ!』と重なる。

目の前のガラスを割れ!
握りしめた拳で Oh!Oh!
やりたいことやってみせろよ
お前はもっと自由で良い

『ガラスを割れ!』は自身以外の(そして共感し合える)他者をも救い、鼓舞している。これは『避雷針』とも共通するだろう。

これらの言葉は『黒い羊』歌詞の最終盤に配置されている。

つまり、かつての楽曲を彷彿とさせる境地に、<僕>が歌詞中の時間経過を経て最終的に辿り着いたことを示している。

そのこと自体が、『黒い羊』を始点にこれまでの欅坂46の楽曲群に続いていくことを示唆している。

<僕>は『黒い羊』の中で、少数であった自身を卑下し諦めてしまっていたところから、少しずつ意志を確立していき、自らのあるがままを受け入れるようになる。

<黒い羊>である自分を<黒い羊>のままに、強く立ち上がるのだ。

そして、そうなっていく過程や結果、示した姿勢がいずれも欅坂46の楽曲の描いてきた「僕」と順を追って重なっていく。

絶望的だった歌詞の前半部を脱却するような後半部。そこでは時系列の変化が発生していることが明確であり、そのこと自体が先に続く未来の存在を示している

繰り返しになるが、彼はここから『サイレントマジョリティー』を始めとしたこれらの楽曲へと向かい、そしていずれ辿り着くのだ。

というのが、『黒い羊』という楽曲の歌詞についての大まかな理解でございます。

思えば、この曲のMVもまた、歌詞中のストーリー(時系列)をなぞっているようである。

死のメタファーに囲まれながら独り虚ろな目で歩く<僕>(平手)が、同じような境遇の他者(メンバー)と出会っていく

時にすれ違い、時にハグを交わし、手を振り払われ途中で膝を折りながらも、(一度は目を背けてしまった)無垢だった頃の自身と邂逅、そして大勢の仲間達と向き合いながら共に鮮やかに舞う。

しかし、少しだけ歌詞との違いは存在している。

MVの<僕>は、自身と同じような存在を救おうと手を差し伸べ(ハグ)、そして最後にはそれらの存在と合流する(その時に交わされるハグは一方的に行われるものではなく、互いに向き合っている)。

こちらもまた、歌詞とは異なる形で<僕>の姿勢や未来を示唆したものであると言えるだろう。

いずれにしても、<僕>はかつて囚われていた絶望からは開放されているはずだ。

この楽曲が公開された頃のメンバーの発言も印象的だ。それぞれ、長濱ねるが出演したラジオ番組で、齋藤冬優花がSHOWROOMで以下のように語っている。

「自分だけ疎外感を感じている方に寄り添える曲になっているんじゃないか」
「欅坂46の楽曲は、元気付けるっていうよりは一緒になってしゃがみ込んで寄り添う」
(長濱ねる)

「自分達の曲で救われる人がいたらなって」
「この世界に生きてたら誰でも響くんじゃないかな」
(齋藤冬優花)

彼女達の理解はMV中の<僕>の姿に重なるように思う。その手を差し伸べようという姿勢もまた同じだ。

しかし、齋藤は同じくSHOWROOMで以下のようにも話していた。

「今回ちょっと悲しいなあって思ったのが、大人の世界を知って『黒い羊』の歌詞の主人公が1stシングルから成長しちゃったなって」
(発言を抜粋、一部編集)

『黒い羊』(の<僕>)が一体いつの時系列に存在するのか、という理解はここまで書いた内容とは異なっている。彼女は1st『サイレントマジョリティー』から成長した先にあるとしているようだ。

どちらが正しいか、というのは確認しようがないことだろう。どちらを支持するかはしないかは貴方次第。

しかし個人的には、順番に発表されていたとは言え、それらの楽曲が常にその時々の「現在」を示しているという考え方にはNOを突き付けたい。

その根拠はここまで書いた内容を信じているためだ。あくまでこれを推していきたい。

そう認識できるのならば、先に挙げた『エキセントリック』『避雷針』『サイレントマジョリティー』『不協和音』『ガラスを割れ!』『アンビバレント』で見せた強い姿に、いずれ<僕>は到達すると断言できる。

加えて言うならば、上記の楽曲群以外の曲もまた欅坂46を示すものだ。つまり、例えば『世界には愛しかない』『風に吹かれても』『危なっかしい計画』でさえも、『黒い羊』から始まり、繋がっていく<僕>の未来だ。

更には、『黒い羊』の特典映像として収録された『KEYAKI HOUSE』で見られるメンバー達が屈託なく楽しむ姿もまた<僕>を待ち受ける可能性ではないか。

彼女達がまた<僕>であり、そしてその未来を自ら示してきたのだ。

では何故、そういった「過去」を8thシングルとして披露したか。

その答えは知れるところではないが、一つ考えるならば、これまでの楽曲(や活動)で既に示された彼女達の「現在」「未来」を根拠に、その「過去」とついに向き合うことが出来たタイミングがこの時であったのではないか。

そして、更なる「未来」への希望を新たにしたのではないだろうか。

そういった意味では、『黒い羊』はこれまでの欅坂46に一つの終止符を打つ楽曲であると言えそうである。

有り体に言えば「清算するために向き合った」「それを経て新しいステージに進む」ものだ。「もう怖くはない」という、そうした姿勢をこそ『黒い羊』は描いていた。それは「あの時も進むことが出来たのだから、今も」という再確認でもある。

そして、彼女達は自らの在り方を以て、この世界に未だ多く存在する<僕>がいずれ現在と未来に到達することを赦す。それが彼女達による<僕>に対する救済でありハグだ。

まとめ

という感じで、多分締まったのでここまでとしたい。

色々と思うところもありますが、まあまあ。多少のルート分岐は付きものです。まだまだ未来は明るいのだ。9thシングル待ってるぜ。

この曲の歌詞について「これが答えだ!」と頑と主張したいわけではなく、「一回こういう風に読んでみましたよ」という一意見として楽しんでもらえたら幸いです。

<全員が納得する/そんな答えなんかあるものか!>ということで。

以上。




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