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スター/ヒューマン論

前々から考えていたことがある。乃木坂46のメンバー、いや、アイドル、に限らず人前に立つ人達、むしろ全ての人達は、スターヒューマンの大きく2つに分かれるのではないかということだ。

これは決して、スター=「天才」「才能者」「憧れられる人」「選ばれし者」と、そうでない「普通の人々」と、っていう切り分けでは全くもってない。

あらゆる人々が固有に持つ「資質」とか「得意分野」を、2つの棲み分けとして言い表してみたものとしての言葉である。

スター/ヒューマンの伝えやすそうな例としては、ドラマ『相棒』がある。キャラクターのどっちが魅力的?と聞いてみたら、「そりゃあ右京さんでしょ!」とも、「いやあ、亀山がいてこそなのよ!」ともなるだろう。実際のところ、どっちか片方だけが魅力的ということではなく、双方に(そちらだからこその)魅力がある。

そんな魅力が、得てして誰しもに、右京さんと亀山ないしスターとヒューマンのどちらかとして当てはまるってことだ。

上下や有無でなく、甘党か辛党か、アウトドア派かインドア派か、こしあん好きかつぶあん好きか、グレイガverかファルザーverか、そういった横並びの区分けに過ぎない。俺か、俺以外か、みたいな線引きではないのだ。

というのを乃木坂メンバーで考えて、楽しく遊んでみようじゃないの。

歴代乃木坂メンバーにおける例を挙げてみると、特にわかりやすいスター白石麻衣ちゃん、特にわかりやすいヒューマン新内眞衣ちゃんだと思う。

「女神」とも称される美の化身、「写真集女王」「なりたい顔ナンバーワン」なんて異名をも持つ白石麻衣ちゃん。グループ活動歴の浅い頃から一人先んじてソロの活動を行っており、現在まで女優業モデル業等々、アイコニックな存在であることは紛れもなく、疑いようのないスターだ。

一方、長らく続けてきた深夜ラジオで、何かあればケタケタ笑い、騙されて泣き、メンバーの卒業に際して泣き、疲れをまるで隠さず、失敗談をあまさず語り、学生時代のエピソードをあまさず語り、とにもかくにも人間味をさらけ出していた、からこそ魅力的であった新内眞衣ちゃん。「我々」に寄り添って、身近な存在でいてくれた親しみある彼女は、等身大のヒューマンである。

しかし上に書いた通り、スター/ヒューマンの要素は上下関係でないしトレードオフでもない。白石麻衣ちゃんは親しみある可愛げに溢れているし、新内眞衣ちゃんが放っている魅力はアイドル、モデル、女優としての説得力に他ならない。

それは承知の上で、あくまでガワの感じで、お送りしたい。白石麻衣ちゃんはスターだよね、新内眞衣ちゃんってヒューマンだよね、とまず聞いた時の、「あーハイハイ、言わんとすることは分かる」くらいの感覚をもってして、更に進めていきたい。

そもそもとして、このスター/ヒューマン論、たまたま見つけて読んでとても面白かったブログが発想の元である。そちらは映画俳優を取り上げて(役者として・演技における特徴を基に)「スター」「アクター」と表現していたので厳密には話が異なるが、大枠を参考にさせていただいた。説明がてら、概要をさっくり引用しよう。

前回もお話したように、スター・タイプは常に「自分自身」で、役を自分に「引き付ける」形で演技します。一方、アクター・タイプは「他人に」なり切ります。役の中に「入り込んで」自分と違う人物を創造しようとするのです。
これはタイプの違いで「上手いか下手か」とは少し違うのですが、演じる役の幅が広いのはアクター・タイプなので、いわゆる「演技派」と言われる人は、アクター・タイプが多いようです。
しかし、当然、上手いスター・タイプもいれば、下手なアクター・タイプもいます。

スターがアクターを受け止めた時、ドラマは輝く|ウディすすむの不思議エンタテインメント探訪

具体例としては、スター・タイプの代表格にジャック・ニコルソン、アクター・タイプの代表格にロバート・デ・ニーロの名前を挙げていた(引用元のページもぜひ参照のこと)。

日本人俳優で考えてみると、例えばキムタクこと木村拓哉は紛れもなくスター・タイプである。彼自身があまりにも象徴的なアイコンであり、『プライド』にしても『HERO』にしても『グランメゾン東京』にしても、キムタクの役はキムタクしかできない。そのことを揶揄するしょうもない声も少なからずあるが、いや、逆に他の俳優がその枠に入ってみることは考えられない。キムタクがこそキムタクとしての役割を担うことが出来る。

草薙くんこと草彅剛は、アクター・タイプだろう。元々からして絶妙に掴みどころのない人柄だったりするが、これまで演じた役柄はとにかく幅が広い。2020年に上演された舞台『アルトゥロ・ウイの興隆』では成り上がっていくギャングを、映画『BALLAD 名もなき恋のうた』では生真面目な侍を、ドラマ『フードファイト』では孤児院出身の清掃員として働く青年と大食い賭博のチャンプという二面性あるキャラクターを、彼は演じた。スマスマ内のコントや一本満足バーのCMではハイな姿を見せたりもしており、カメレオン的な印象を持つ人も少なくないのではないかと思う。

また当該ブログの別記事においては、レオナルド・ディカプリオは「アクターになりたいスター」であり、シルヴェスター・スタローンは「スターになりたいアクター」であるとも指摘していた。時にはそうしたギャップも発生しうるほどに、本人の意思・願望を超えた「資質」や「性分」として、「スター」「アクター」は根付いていると言えそうだ。

そんな「スター」「アクター」は、あくまで役者としての性質を表す言葉であるので、少し違い、しかし似た考え方として、これを基にこの度「スター」「ヒューマン」と若干言い換えてみた次第だ。

しかしながら「スター」「ヒューマン」というものにおいて、ある意味逆転的な見方ができる場合もある。

スターだからこそ「垣間見える親しみやすさ」に惹かれることもあれば、ヒューマンがゆえに共感を集め「代弁者としてのカリスマ性」を有することもあるのだ。

例えば、ちょうど(これを書き始めた今)観ている『あちこちオードリー』MC・オードリー春日さん若林さんは、わかりやすくスターとヒューマンに分けることが出来るコンビであるように思う(「の方」「じゃない方」という形でフックアップされることもあったり)。

しかしながら、言うまでもなく若林さんは、日陰者側の視点を元来持つからこそのカリスマ性・視野の広さ・同じ悩みを持つ者への理解の深さによって、今や存在感や支持を確固たるものにしている。

ちょうどゲスト出演している内の一組はティモンディであり、「やれば出来る!」の一声がとにかくエモーショナルな高岸くんと、その傍らでサポート役に徹する前田くんという、いかにもスターとヒューマンのコンビだ。そんなヒューマンたる前田くんは、その船頭である若林さんを前にしたからこそか、苦悩をこれでもかと赤裸々に語っている。

ラジオや書籍は言わずもがな、ヒューマンだからこそ持つ視点や、ヒューマンだからこそできる脳内の吐露によって、受け手それぞれの「理解者」としての若林さんの存在感を大きいものとして確立させている。

芸能人として「ヒューマン」であることが、ひとつの個性として有効である証明のような一人が彼なのだ。(先に挙げた新内さんも、まさにその側面を持っている人だ)

上の話とも連動するが、「スター」で言うと、「潜在的な」を頭に付けたうえで当てはまる人も少なくない。なんなら乃木坂46の場合、むしろそうである子が中心に配されがちだ。

白石麻衣ちゃんのようなアイコニックなスターのほか、「原石」的な、「普通の女の子が今日から」的な、変化しうる伸びしろ(あるいはストーリー性)をピックアップする形でスター、あるいは主人公として見出されている。そんな子が、得てしてシングル表題曲や期別曲のセンターに選ばれている。

考え方的には『NARUTO』に近い。名高い一族の末裔であり、秘術を受け継ぎ素質も十分、おまけにビジュアルも整ったサスケ、ではなく、天涯孤独で落ちこぼれ、虚勢を張って派手なイタズラを仕掛けては迷惑がられ、孤立しているがその実、彼は……というナルトがやはり主人公なのだ。あるいは『SLAM DUNK』の桜木花道と流川楓を挙げてもいいかもしれない。

えらいもので、サスケも流川もスターの資質を十分に備えている(表に現れている)のに、それ以上のスターとして頭角を現してくるナルトや花道がいる。それゆえ、相対的にヒューマンとしての苦悩が描かれることもあったものだ。

そういった「潜在能力」とか「成長型主人公」とか、そんなカテゴライズをもってスターとして中心的存在に選ばれるというのが、乃木坂46や少年ジャンプにおいて取られている仕組みなように思う。

チームという単位で考えてみれば、スターとヒューマンのバランスも重要であると個人的に思う。

上で挙げた『相棒』やオードリー、ティモンディの場合、コンビとして2人のそれぞれがスターとヒューマンを担う形でタッグを組んでいるからこそ、良い相乗効果を生んでいる。

俳優としてのスター・タイプ、アクター・タイプの例として挙げたSMAPメンバーも、5人組としてスターとヒューマンのバランスが良いグループだと思う。個々の割り当ては割愛するが、少なくともキムタク一人が単独スターのワンマングループではないからこそのバランスを持ったチームである。

乃木坂46もその例に違わない。総数は常に数十人におよぶグループだが、選抜、アンダー、各期、ユニットなど、ある程度の人数での活動においても、そのバランスを有した人選(やポジショニング)がなされているとも感じる。

3期生以降は期別での活動を行う例が少なくないが、チーム単位で見る機会が多い分、スターとヒューマンのバランスの良さをつい見出してしまう。

それこそ「原石」的なメンバーが中心に立つケースが多いが、それを軸にした采配が行われているとさえ思わなくもない(※もちろん個人的感覚以上の根拠はない)。

ともかく、全員が全員スターであればいいわけでもなく、全員ヒューマンでもままならない。良くも悪くもそのバランスが嚙み合わず上手くいかない過去の例もいくつか思い浮かぶ。

皆違って皆いい、とは全く違う話だが、スターとヒューマンどちらもが揃ってこそ痒いところまで満遍なく手が届く、良いグループとして成り立つのかもしれない。

(大前提、今回の話とは異なる意味合いの言葉として、皆そもそも"スター"である。だからこそ乃木坂46だしSMAPなのだ。)

さて、「スター」と「ヒューマン」についてひと通り整理できたかと思う。じゃあここからは乃木坂の話を更に、なんて思うが、いざどう書いていこうかと考えると中々どうしてムズカしい。上に書いたのと同様に、抽象的な話をメインにしたいところだが、逆に細かくなりそう。

いっそメンバーの名前を片っ端から挙げては当てはめていこうじゃないかとも思ったが、それはそれで小さくまとまりそうなので、それもやめる。

ということで今回はここで筆をおきたいと思う。考え方のみ提示して、後は個々の理解にお任せしよう。

繰り返しになるが、スター/ヒューマンは「素質のあるなし」「魅力のあるなし」とかではなく属性としての区分けに過ぎない。それこそ上で散々書いた通り、ひと口にスターだヒューマンだと言っても、示す意味合いが異なる場合がある。

しかしその上で、「あーハイハイ、言わんとすることは分かる」という感覚は共有できると信じて終わります。

以上。

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