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フード理論で解く乃木坂46・『松村沙友理は止められなければ9杯食べる』

乃木坂46のメンバーには食いしん坊が多いことはご存知の通り。それに加え、メンバー間において、なにかと食べ物・お食事関連のエピソードにも事欠かない。これまたご存知の通り。

そんな彼女たちのことをもっと知りたい!語りたい!そう思った時、この「食べる」というキーワードが重要なのではないかと。そう思い至った。

ということを前提にしつつ、一旦置いておいて、話を進めたい。

以下のような本がある。

お菓子研究家・福田里香氏著の『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』

これは、福田氏が提唱する「フード理論」に基づいて、漫画やアニメ、映画などのフィクション作品におけるフード(食べ物)描写の50の定石「ステレオタイプフード」をピックアップ、その表現とそれが持つ意味、指す状況を紐解いた名著である。

その「フード理論」。上記の通り、基本的にはフィクション作品に対して用いられるものだが、その用いられ方が”人”を描くにあたっての表現である以上、実在の人物にも当てはまるはず。

そんな発想から、「フード理論」に乃木坂46を当てはめて語っていこうというのが今回の主旨である。この本に書いてある内容を基にして想像を膨らませ、乃木坂46のメンバーを見てみたい。

フード理論とは

最初に認識の共有として、そもそも「フード理論」とは何ぞや、ということをおおまかに解説していこう。概要は上記の通りだが、具体的にどんなことかっつー感覚を是非とも理解していただきたい。

まず福田氏は『フード三原則』と称して、以下を挙げている。

1.善人はフードをおいしそうに食べる
2.正体不明者はフードを食べない
3.悪人はフードを粗末に扱う

これを簡単にまとめると、「フードを美味しそうに食べる=食べ物を大事に扱う、価値のあるものと認識している」と捉え、そういったフードの取り扱い方にはその人物の善良さが反映されている、その逆の場合もしかり。そして、謎の人物はそれ自体を読むことができない(フードを扱う姿を見せない)。という考え方だ。

さらに、ここから枝葉が伸びていくようにして、フィクションにおけるフード表現の定石「ステレオタイプフード」を挙げている。タイトルにもある「ゴロツキはいつも食卓を襲う」をはじめ、例えば以下のようなものだ。

・賄賂は、菓子折りの中に忍ばせる
・絶世の美女は、何も食べない
・カーチェイスで、はね飛ばされるのは、いつも果物屋
・末期の水は、いつも間に合わない
・焚き火を囲んで、酒を回し飲みしたら、それは仲間だ
・逃走劇は厨房を駆け抜ける

他にも、「バナナの皮で転ぶ」「少女がパンを咥えて走ると、転校生とぶつかる」「驚いたとき、液体をブッと吐き出す」など、定番の古き良き表現も余さず挙げている。

本の中では、こういったステレオタイプフード(フード表現)について、その表現が持つ意味や、そのフードが何を指し表しているのか、そもそも何故そのような扱われ方がされているのか、といったことが考察・解説されている。

そういったフード表現をとっかかりに読み解いていくことで、各作品や各キャラクターへの理解をさらに深めることが出来る、というわけだ。

(以降、実際の作品から具体例を挙げてますが、これだけで1記事分くらいの長さになってしまったので飛ばして次の項に進んでも構いません)

ここからは、実際の作品内でのフード理論に当てはまる描写を見ていこう。

例えば、福田氏自身がたびたび挙げている『水戸黄門』。高い身分を隠して旅するご老公は、かかわった農民に出された食事を「うん、これは美味い」と喜んで食べる。

「そんな粗末なものを!」と格さんなんかが止めようとするが、本人は気に留めず、出されたものをありがたくいただくのだ。

この一連の流れに、ご老公の人の善さ、懐の深さ、自身の身分を驕らない分けへだてなさが表れている(止めた格さんも悪人ということではなく、大事な人に変なものを食べさせられない!という一つのフード表現と言える)。

他にも、『ONE PIECE』の初期の場面を思い出してみよう。単行本にして1巻、ロロノア・ゾロが少女リカを助けたことをきっかけに海軍に捕らえられた際のエピソード。

柵が張り巡らされた場所に磔にされたゾロ、そこにリカが忍び込み、こっそりおにぎりを差し入れに来るも、海軍のバカ息子ヘルメッポはそれを横取りし、勝手にかじった挙句「こんなもん食えるか!」と踏みにじる。二人が去った後ゾロは、つぶれて泥まみれになったそのおにぎりをルフィに拾わせて全部平らげ、リカに「うまかった」と言伝るよう頼む。

「自分の危険を顧みず食べ物を与えようとした」リカ、「人の食べ物を奪い、ろくに食べもせず台無しにした」ヘルメッポ、「自分のために作られた食べ物をどんな状態になってもすべて食べる」ゾロ。

それぞれの行動から、誰が善人で誰が悪人かが一目瞭然だろう。

また『ONE PIECE』で言うと、特徴的な描写がある。戦いをすべてを終えたのち、麦わらの一味のメンバー、共に戦った協力者、かかわった街の人、全員巻き込んだ”宴”を行い大団円を迎えるのが恒例だ。その場のすべての人が笑顔でメシを頬張り、盃を交わす、名場面である。

「フード理論」によれば、同じ食卓を囲んで一緒に食事をすることは、その集団が仲間であること、打ち解け合った仲であることを示す描写だ。

「同じ釜の飯を食う」という慣用句もあるように、食べ物を共有すること、食べている姿を見せ合うことは、人のつながりが形成されたことを表している。福田氏曰く「腹の底を見せあった」関係になるのだ。

細田守監督作品『サマーウォーズ』でも食卓を囲む描写が見られる。序盤、陣内家が揃った場に突如現われた侘助は、当初は食事の輪に入ることなく、悪態をついた結果追い出される(料理の皿をひっくり返しながら逃げる)。

しかし映画後半、一同が結託して事件の元凶・ラブマシーンとの戦いに挑む際、主人公・健二や侘助も含めた陣内家全員で食卓を囲みガツガツと食事を摂る。

「全員で食卓を囲む」に加え、「以前はその輪に入らなかった者も食卓に加わる」という描写で、その一同が仲間であること/その者も新たに仲間になったことを表現しているというわけだ。

また、本の中でも例示されている『風の谷のナウシカ』では、気を失ったナウシカが腐海の底で目を覚ました時、自分が食べるより先に、まず連れているキツネリス・テトにチコの実を与える。

自分よりも他者を優先してフードを与えるのは、善人どころか聖人の域の行動。このシーンから、ナウシカの徳の高さが窺い知れるのだ。『もののけ姫』のアシタカも、休むたびにまず連れている動物・ヤックルに食べ物を与えたり水を飲ませたりする。

同じくジブリから『天空の城ラピュタ』。物語前半、パズーシータは空賊(ドーラ一家)に家を襲撃され咄嗟に逃げ出す。その後隠れた洞窟で、いわゆる「ラピュタパン」を一緒に食べる。パズーの家から持参したトーストを一人1枚ずつ、その上には半分こにした目玉焼きが乗せてある。さらに鞄からリンゴも取り出し、それも半分こ。

このシーンは、ステレオタイプフードで言う「少年(少女)が二人並んで食べ物を分け合えば、それは親友の証」に当たる。ここから先、さらに大ごとになっていくわけだが、決して多くない食べ物を分け合って食べたこの段階でパズーとシータの間には結束が生まれている、この二人はもう固く結ばれた仲間である、という表現なのだ。

他にも、『ドラえもん』原作第1話では、引き出しからいきなり現れたドラえもんが、のび太が食べていたお餅に手を伸ばし、「うまいもんだなあ!」と感激してあっという間に平らげてしまう。

この時点では得体の知れないヒゲ面青ダルマである彼だが、やけにフードを美味しそうに食べるのでとりあえず悪いヤツではなさそう、と思わせる描写と言える。

逆に、『魔女の宅急便』ニシンのパイの少女が、短い登場シーンでありながらとても嫌な人間のように見えてしまうのは、自分のために丹精込めて作られたフードを「私、このパイ嫌いなのよね」と無碍に言い放ってしまうからだ。

(また、孫のためにパイを作るお婆ちゃん、それを雨に濡れながら懸命に届けるキキは、それぞれの描写で善人であることが示されている。)

そして『名探偵コナン』に登場する「黒の組織」。ジンウォッカ等コードネームを名乗る素性の知れない彼らは、作中で食事を摂るシーンは描写されていないはず。

それは、彼らが人間味を出してはいけないキャラクターだからだ。「食事」を通して人間らしい姿を見せないことで「謎の人物」であることが強調されている。

もし彼らが、仕事を終えて自宅に帰り「今日はもう遅いから納豆ご飯で済ませちゃおうかな」とかやっている姿を想像したらどうだろう、その親しみはダンチなはずだ。彼らはそうあってはいけない。

また『進撃の巨人』では、巨人が人間を捕食しながらも消化せずに吐き出す描写がある。これは、巨人の行為が「食事」ではない、ということである。

巨人にそういった生理に基づく行動を行わせない(そして、代わりに全く異質な行動を取らせる)ことで、巨人が正体不明で、人間の理解の範疇を超えた存在であることを示す設定だ(作者・諫山創氏はフード理論について既知であり、意図して盛り込まれた設定とのことである)。

こんな風に、フード(小道具としての食べ物、描写としての食事)を通して、登場人物のキャラクター性、物語における役割、現在の心理、関係性(とその変化)が描かれる。逆に言うと、フィクション作品におけるそれらを効果的に描くための非言語ツールとして、フードが重要な意味・役割を持って度々用いられている、というわけだ。

そんな「フード理論」の考え方を基に、乃木坂46を取り巻くフードに注目することで、彼女達のキャラクターや関係性など、その人となりがよりいっそう見えてくるはず。

というわけで、ようやく本題に入りたいと思う。ここからが『フード理論で解く乃木坂46』です。

松村沙友理は止められなければ9杯食べる

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まずは、先日誕生日を迎え13歳になったばかりの松村さん(↑の放送は2014年、約5年前なので当時13歳)。

彼女は『乃木坂ってどこ』時代の名企画「ペコ-1グランプリ」こと「大食い女王決定戦」にてお茶碗9杯分のご飯を平らげた。お茶碗2杯強~3杯でだいたいお米1合。「3合食べちゃう」との発言が定期的にあるので、この時だけでなく、いつもの食事量がそうなようである。

そんな規格外の食欲を誇る彼女。その食べっぷりにこそ”らしさ”が現れている。

おおまかにその特徴を挙げてみると、こうだ。

・とにかく沢山食べる
・とにかく美味しそうに食べる

食べる量に関しては、上記に加え、他にも度々番組で他のメンバーを置いてけぼりにする量食べ、また例えばライブの裏側のケータリングで「巨大なおにぎりを作って食べている」といった証言がメンバーからも出ているなど、基本的に常軌を逸した食欲を有していると思って間違いないだろう。

では、「常軌を逸した量のフードを食べる」ということがどういうことか考えてみる。

そもそも「ご飯=一日3食、に含まれるもの」は、生命活動において必須のもの。食べることは生きるために必要な事だ。つまりそれは、誰しもが行うことである(後述するが、お菓子、お酒などはこれに含まれない「嗜好品」に当たる)。

誰しもが行うということは、食べる量、食べる物、そこに常識的な範囲というものが当然ある。そうである以上、それを逸脱することは「常識外のこと」、逸脱できる者は「常識外の存在」と言える。

(余談だが、人間が通常食べられない物を食べる存在もまた、「正体不明者≒人外の存在」に当たる。人の血を啜る吸血鬼、人肉を貪るゾンビ、家畜をキャトる宇宙人、ゴム以外は何でも食べるガッちゃん等がそうだ。)

しかし、単にいっぱい食べるから「常識外の存在=正体不明者」というわけでもない。生きるため誰でも行うことのキャパシティが一般的なそれを超える者は、「超越者」とも言える。つまり、人間から外れた者ではなく、人間(の常識)を超えた/超えることが出来る者であるということだ。

例えば、少年漫画の登場人物にはその傾向が多く見られる。

ドラゴンボール』の悟空、『ONE PIECE』のルフィ、『SLAM DUNK』の桜木花道など、彼らがメシを喰らう時は、机いっぱいに山盛りのフードを用意し、大体周りに引かれながらも一人で完食しているだろう。ざっと挙げても有名どころがきっちり当てはまるのだ。

これは、彼らが「底知れないポテンシャル/潜在能力の持ち主」であることを表したいからだ。もちろんそれは、主人公という属性を持つからこそ、そのキャパシティが浅くあってはならないためだ。

単純に「人よりも優れている」という表現を行わずに、「人と違う(=よりすごい)」ことを表すためのステレオタイプの一つとして、「常軌を逸した大食い」があると言える。

そして、まちゅの場合もそうだ。「止められなければ9杯食べる」ということは、彼女にとってはそれが当然ということ。彼女は、当たり前のようにそのポテンシャルの深さを見せつけている。

そして、その実際のポテンシャルは語るまでもないだろう。グループの先頭に立つ一人として、後輩たちを率いる軍団長として、美のアイコンであるモデルとして、また一人のアイドル、タレントとして、その実力の高さや引き出しの多さ、発想の幅広さ、行動力のあるさは常人のそれを頭一つも二つも抜き出ている。

つまり、彼女にかかわるフード表現は、紛れもなく彼女自身の能力と紐づけられている。

「いっぱい食べる君が好き」どころじゃない。その食べる量を鑑みて、尊敬のまなざしを向けるべき存在であるのだ。彼女はそれほどのポテンシャルを有している。

そして何より、どれだけ常識外の量を前にしても彼女は「とにかく美味しそうに食べる」。ここが重要だ。これによって、彼女がどこまでも善人であることが示されている。食べている時のその笑顔を見て、彼女が愛すべき存在であることがわかるのだ。

桜井玲香の大好物はウニ

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こちらは『乃木坂工事中』2018年バレンタイン回での一幕。というよりかは、「ウニ!」「ウニだ!」「桜井ウニゲット!」と、事あるごとに言っている彼女の大好物の話だ。「どの食べ物が好きか」という、言うなれば基本設定の部分からも色々と読み解ける。

ウニといえば、ちょっとした高級品。全く手が届かない訳ではないが、そんなにしょっちゅう食べられるものではない、というものだろう。

そんな「ちょっとした高級品・ウニ」を好物に挙げているということから、それなりに裕福な家庭に生まれたこと、それに伴う育ちの良さを読み取れる。

そうそう気軽には食べられないウニを、子どもに与えることが出来る。それでいて、飽きるほどは食べさせない。贅沢品を贅沢品として、乱暴には扱わず、またそれを子どもに対してしっかり示していることがわかる。かつ、好物として素直に言えなくなるようなブレーキをかけることもない。

と、いった見方ができるわけだ。玲香ちゃんの学歴や、彼女自身が纏う雰囲気から推察するに、この見立てはあながち誤りではないだろう。

またそういった背景が読み解けたことで、逆転的に、ウニが大好物になったことには少なからず必然性があったのでは、とも考えることも出来たりする。食べる機会があったからこそ、ということである。

そして、本人は毎回無邪気にウニが好きだと言っている。フードに限った話ではないが、好きなものに対する態度にも、常にその人のキャラクターが現れているものだ。

例えば、好きなものを、とにかく独り占めしたい。見つけたらこっそりと確保する。または、むしろそれ以外のものはいらない。

好きだけど、わかるように表には出さない。恥ずかしくて言うことが出来ない。あるいは、それが手に入るとしても必要以上に遠慮する。

こんな風に、好きなものを前にした時どのように振舞うかで人となりが見えてくるし、なんなら根っこの部分こそ出てきてしまうものだと思う。

ということを踏まえてみると、玲香ちゃんの無邪気さと言ったら!見て、この顔!どう考えても良い子じゃないわけがないし、一刻も早くウニを食べさせてあげたい気持ちになる。

結局、彼女の根っこがこの笑顔なのだ。いつかの番組内VTRで見せた姿、その陽気さやおとぼけっぷり、その愛らしさも含めて彼女自身だ。

玲香ちゃんのウニにまつわるあれこれを見ていくだけで、なんだか彼女のことが好きになりそう。好きな食べ物ひとつ取っても、本人に関する背景や深い部分が現れていたりもする。それを知ることで、さらに理解を深められる。これもまたフードが示してくれているのだ。

そして余談、玲香ちゃんは「ウニ!」と言うその声の響きさえも良い。あんなに可愛く唱えられる魚介類、他に無いだろう。「イナダ」「イクラ」「サバ」「マグロ」「カンパチ」「赤貝」どれもだめだ。これは「ウニ!」だからこそ。玲香ちゃんは先日のライブをもってグループを卒業してしまったが、あのきゅるっとした声の「ウニ!」を時々思い出してください。

白石麻衣が地球最後の日に食べたいのはお母さんのハンバーグ

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こちらは『乃木坂工事中』#1。とびきり好感の持てるこの発言、もはや説明するまでもない気もするが、ともかくフード理論的に読み解いていこう。

まず挙げたいのは、上でも記した「絶世の美女は何も食べない」。まいやんと言えば、”女神”と称される、疑いようもない絶世の美女だ。一見これにも当てはまりそうだが、その実、全く違うと言い切れる。

ここで言う「絶世の美女」とはいわゆるファム・ファタール、”魔性の女”と読み替えてもいい。その美貌を武器に、あくどい魂胆を潜ませ、自分の利を叶えようとする悪女的なキャラクターを指している。例えば『ルパン三世』の峰不二子だ(原作漫画ではアニメのように仲間にならず、もっと強かな女として描かれる)。

つまりこの「絶世の美女」は、その本性、本質を美しさという仮面で隠した「正体不明者」である。だから「食べない」のだ。

(補足、逆に本来は純粋な良い人間だが、立場上それを封じて気位高く振舞わなくてはならない、みたいなキャラクターにも当てはまる理論である。)

そんな中、まいやんは自身が「絶世の美女=魔性の女」ではないことを「お母さんのハンバーグ」の発言をもって示している。

好物を挙げるということ(=「食べている」ということ)、そしてそのフードが指し示す意味を踏まえると、彼女が魔性性(ましょうせい)を持たないことがよくわかる。その美貌がキャラクター性とは切り離されているのだ。彼女は、ものすっげー美人でありながらそれを鼻にかけることもせず、明るくお茶目でい続ける。

だから、ShinShinのラーメンを画角からはみ出るくらいのリアクションで美味しそうに食べるし、お皿のお米を一粒一粒丁寧に取って食べるし(そして無くなると嘆く)、後輩がかじっている生姜を自分もかじってみる。

そして「お母さんのハンバーグ」がその最たるものだ。素朴な家庭料理であるハンバーグというチョイスがいっそう親しみを持たせるものだし、さらにそれが人が手作りしたものであること、その上「お母さんの~」というところには、まいやんが持つ人への(とりわけ「家族への」)親愛の情が現れており、掛け算のように彼女の善良性を際立たせる。

かつ単に好物としてではなく「地球最後の日に食べたい」としているのがなお良い。しかもそれを人前で、てらいなく言うことが出来るのも、飾らない人柄あってのもの。

「お母さんのハンバーグ」が好物であること、またそれをはじめとしたフード周りの彼女の振る舞いは、マイナスな定石を跳ね除け、かつプラスな印象をとことん引き込んでいると言えるのだ。

乃木坂46はライブの後に大抵ご飯会をする

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乃木坂46のメンバーは、夏のツアーをはじめとした地方公演の際、ライブ後の打ち上げがてら「ご飯会」を行う。メンバーのブログ、番組での紹介などもあり、今やその存在を知らないことはないだろう。

ファン的にもメンバーが訪れたお店がちょっとした”聖地”になったり、あるいは「そのご飯会に混ぜてくれ」なんて声も飛び交う始末(混ぜてほしい)。

さてそんなご飯会、フード理論的には上でも挙げた「同じ食卓を囲んで食事を摂ったら仲間」である。繰り返しになるが、「同じ釜の飯を食った」「腹の底を見せ合った」という表現もあるように、フードを共有したこと、その場を共有したことが、形成された関係性を表しているというわけだ。

つまり乃木坂46のメンバーは、この「ご飯会」を通じてよりいっそうその仲を深め合っているのだ……と締めくくれてしまいそうだが、せっかくなのでもう少し考えてみよう。

ポイントは「ライブの後に、」という点だ。

フィクションにおいて、一同が同時に食事を摂る場面が、特に象徴的に取り扱われる場合の具体的な例として、「戦闘の前の決起集会」「勝利の後の大宴会」を挙げることができる。

それぞれ、戦闘の前、戦闘の後に行われるものだが、それが上記の「同じ~仲間」に加えて、何を表しているか、どういう効果があるものなのかを考えてみると、色々と見えてくる。

「戦闘の前の決起集会」は、「意識の統一」のために行われるものだ。一同で食卓を囲い、「ここにいる全員で目的を果たそう/目標を達成しよう」というその意志を確認し合う行為。つまり「持たなければいけない」一つの共通意識に収束させるための場であるのだ。

福田氏が度々挙げる『七人の侍』でも、野武士との決戦の前に、島田勘兵衛をはじめとした侍たち、彼らに助けを求めた村人たちが、一緒になって食事を摂る。言葉で交わされることこそないが、これは戦いの前の決起集会だ。

対して「勝利の後の大宴会」は、その達成感を共有する場だ。戦闘であれ、ライブであれ、大きな困難をこの仲間達で乗り越えた、その事実を共有した、それを一つの形として描写したものが「大宴会」と言える。

すべて完了した達成感、やり遂げた故の充足感、もう気負う必要が無いという解放感、無事に終えた安心感。一つの意志に収束させた「決起集会」と違い、各々が持ち帰ったそれらの感情を互いに共有しあう場が「大宴会」だ。上で挙げた『ONE PIECE』の宴も、まさにそれだろう。

だからこそ、乃木坂46の「ライブの後のご飯会」も、より結束を深める場となる。

特に彼女らは、直前のライブで先輩の頼もしい姿、後輩の成長した姿を目の当たりにすることもあるだろう。それを踏まえて、お互いに向ける目も変わるだろうし、話したいことも出来ているだろう。「先輩とお話ししたくて参加しました」という発言もある。

そういったことも含めて、ライブを通じて共有できるものはなおさら多いはずだ。

だからこのご飯会は、彼女達にとって大切な場なのだろう。そして彼女達を語る上でも欠かせないものだ。まあ、ご当地グルメを堪能するチャンスとしても、大切な場なのだけども。

そういえば、ご存知「犬メン」も「舞台稽古~開催期間中よりも、終わってからの方が仲良くなった」関係であるらしい。共に目的に向かって取り組んでいた時期よりも、その後により仲が深まったそうだ。この話も、「これからがんばるぞ!」よりも「みんなでやり切った!」が結束に繋がりやすいことの裏付けと言えるかもしれない。

さらに余談、「さゆりんご軍団」の面々は、このご飯会に特によく参加するメンバーだ。本人らが語る結成の理由は「軍団長と趣味が合う人たち+α」であるが、そもそもご飯会で食卓を共に囲う仲だったことが、その後の結束の最初のきっかけだったりするのかも、なんて想像することも出来る。

乃木坂メンバーはやたらとお酒を飲む

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変な見出しにしてしまったが、つまりは乃木坂×お酒という一見イメージに合わなそうなところ、それが今やなんの抵抗もなく話せる/受け入れられる話題として誰もが認識している、ということが言いたい。

そうなった大いなる要因は、卒業メンバー・みさ先輩こと衛藤美彩による『乃木坂工事中』内企画「みさみさの1人家飲み」であることは言うまでもない。みさ先輩という人選、一人飲みというシチュエーション設定、企画が行われた時期的なタイミング、そして実際の飲んでいる様子(どんどんだめになっていく感じも含め)、どれをとってもパイオニアとして優秀すぎる。以前他のnoteでも書いたが、何故あれがギャラクシー賞を取らなかったのか理解に苦しむほどだ。

と、この話は本筋とは別のものなので、ここまで。今回は、ではそんな「お酒」というフードがもたらすものとは一体、という話がしたい。

お酒というのは「嗜好品」に当たる。フードとして、食べなければ(飲まなければ)いけないもの、生命活動に必須なものという属性を持たない。

それ故、”だからこそ”そこに特別な意味合いを持たされたり、重要なモチーフとして扱われたりすることが多い。

例えば、やくざ者同士で盃を買わせば、それは兄弟の契り。バーのカウンターで隣り合う男女が一緒にお酒を飲めば、それはただならぬ関係性の示唆。逆に、一人の女性がマスターに強い酒を注文したら、それは失恋が背景にある。

息子と父親がお酒を酌み交わせば、それは息子が成長し大人になった証。お父さんが家の食卓でビールを飲み干し「ぷはーっ!」と声を上げれば、それは仕事というしがらみやプレッシャーから解放され家庭に戻った瞬間だ。

こんな風に、お酒(を用いた描写)は、様々な隠喩や表現に当てはめることができたり、ここぞという場面で象徴的に用いられる、幅広い性質を持つフードなのだ。

で。フィクションではそのように深い意味を持たされがちなお酒だが、それはさておき、現実においては、あえてもっとシンプルに考えてみたい。

ここではお酒が「嗜好品」であることに着目してみたい。

つまりは楽しむものだ。食事に添えてであったり、あるいはお風呂でも入ったあとの憩いの一時、友人と羽目を外す時のお供として。または、成人を祝うものとして。

だから、生命活動に必須なフードではないが、日々をより楽しむために有効なフードと言える。

そんな、日々を楽しくするフード・「お酒」を、アイドルである乃木坂メンバー達が普通に口にしていること、それを普通のこととして発信してくれること、それが大きなことであるように思うのだ。

僕らと同じようにお酒を愉しむ彼女らも、僕らと同じ存在だと思わせてくれる。そのことが、親しみをいっそう深めてくれる。

それこそ成人を迎えたメンバーが、お酒を初めて飲んだ、その時に何を飲んだ(バーボンなのか芋なのか)、という話題も、アイドルとしてのかりそめの姿ではなく一人の人間の日常の一端である。そんな風景を知らせてくれることでまた、勝手ながら、心の距離を少しばかり近く感じてしまったりもする。

「お酒」を通して、「アイドルだって人間である」ということを自戒としてでなく、より愛するための認識として言うことが出来るのだ。(当然、自戒としても胸に留めておかなくてはいけない!)

もちろんそれは、他のフード、またフードに限らず様々なモチーフから、感じることは出来る。

しかし、「アイドル(乃木坂46)」と「お酒」の一見イメージの結びつかなさ、そしてそれを打ち払う彼女達の姿が、このことをより際立たせてくれるように思う。

逆に考えれば、このことがまた「お酒」の持つフードとしての性質だと言える。乃木坂46とお酒を掛け合わせて語る場合、この「お酒」というフードが、彼女達の飾らない姿を示すアイコンになるのだ。

秋元真夏は鼻の頭にクリームを付ける

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グループ随一の名バイプレイヤー、バラエティの立ち回りも五指に入るメンバー、秋元真夏。

玲香ちゃん卒業を期に2代目キャプテンに任命されたことで、これまでのコメディリリーフ・いじられキャラがやり辛く感じてしまうことはないだろうか、でも玲香ちゃんもいじられてたし別にそんなことはないか、なんて思う今日この頃。

そんな彼女が持つキャラクターといえば「ぶりっ子」。そして彼女のぶりっ子演芸の代名詞と言えるのが、この「鼻クリーム」である。

既にこれは可愛さを増さすアクションとして機能しておらず、ツッコまれ、スカされ、黒石さんが現れ、と実質的にボケないし次の展開へのフリと化して久しい。

それは、このアクションがそもそも「ぶりっ子」ではなく「コメディ」として働いてしまっているためだ。そしてそう働いてしまっている理由も、フード理論の見方で紐解くことが出来る。

そもそも、フードを用いたコメディ描写は結構多い。「確かに、あるある」となりそうな例をざっと挙げてみよう。

・お団子を急いで食べて、「ムググ…」と喉に詰まらせる
・せっかく買ったソフトクリームを、食べる寸前に地面に落とす(手にはコーンだけが残る)
・ポテトチップスの袋を開けようとしたら、バーンと弾けて全部こぼす
・クッキーを焼くのに失敗して、オーブンから出した時に黒コゲになっている
・紙袋に入れていたフルーツを落としてしまい(袋に穴が開いてしまい)、坂道を転げ落ちる

これらのフード表現には、共通する2つのポイントがある。それは、「食べることに(自ら)失敗した」「お菓子(デザート)として食べられるフードである」ということだ。

上で挙げた表現はすべて、食べている最中に、またはこれから食べようというときに失敗した(食べられなかった)描写である。作った/買ってきた、も「これから~」に当たる。

さらにこれらは、予測できないハプニングであるようなそうでないような…という塩梅の出来事であることが一つのキモである。つまり自分の失敗、「自分が悪い」で完結しうるということだ。

そして「お菓子(デザート)」であるという点。これは先にも述べた「嗜好品」である、ということだ。用いられているフードが、「ご飯=一日3食、に含まれるもの」「生命活動において必須のもの」には当たらない。

この2つのポイントによって、これらの描写を例とした、フードを用いたコメディシーンがコメディたりうる。喜劇として成立するのだ。

例えば、いわゆるリアクション芸。「熱い」「痛い」「まずい」「カエル無理です」、いずれも、うっかりすれば「可哀想」と取られかねない。そこを、本人やら周りの人間やらが上手くバランスを取り、笑えるものとして成立させているように思う。

つまりは喜劇にも悲劇にもなりうるシチュエーションを、どうバランス取って喜劇として成立させるか、が重要と言える。

そう考えた時、上記のフード表現は、コメディとしてバランスが取りやすいのだ。挙げた2つのポイントが、そのバランスの取りやすさの起因となっている。

まず、用いられるフードが「お菓子(デザート)」という「嗜好品」であることが、悲劇性を薄めている。主食ではない(食べることが必須のフードではない)ため、これらを食べられなくても「食いっぱぐれた」ことにはならないからだ。生命活動に不足が生じる出来事ではないため、いくらか「可哀想」具合が弱くなる。実際の印象として、大きいポイントである。

そして「食べることに(自ら)失敗した」という点。この「自ら」が重要だ。もしこれが、これから食べようというフードが「誰かの手によって」ひっくり返されたのだとしら、それは悲劇以外の何物でもない。例え嗜好品であってもそれは変わらないだろう。しかし、自分の失敗であることで、その本人に責任が生じる。「被害者」ではなくなるのだ。そのことが「可哀想」具合を中和し、この失敗を気兼ねなく笑いやすくする。

故に、「お菓子(デザート)」を「食べることに(自ら)失敗した」シーンは、コメディとして成立しやすい。そのバランスにおいて、悲劇の比重がいくらか軽いため、喜劇に見えやすくなっているのだ。

そして、真夏さんの鼻クリームもこの2つのポイントに通じている。

クリームということは、実際に食べるものはパフェやクレープだろう。それを食べようとかぶりついたら、口と一緒に鼻も当たってしまい、クリームが付いちゃった。そう、「デザート」を食べるのに「失敗」している。

もちろん、その失敗が可愛らしさでもあるのだが、同時にコメディとしての要素も多分に含まれる結果になっている。おまけに、真夏さんの場合はとっくに成人しているため「いい年して…」という視点も発生する(だから年少メンバーにスカされやすい)。それが余計に、可愛らしさよりもコメディ成分を強めてしまう。

そうしたロジックによって、この「鼻クリーム」が、可愛さを生むものというより、コメディシーンになってしまう。「さあ、イジってください」というアクションに見られ、演芸扱いされるのだ。

とは言え実際は、失敗どころか自らクリームをピッと付けているので、もはや失敗がどうとかではないんだけど。

伊藤かりんはノースリーブで天ぷらを揚げる

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こちらは『乃木坂工事中』の企画「こうなって総選挙」にて、「男をダメにしそうなランキング」で見事ランクインを果たした伊藤かりんちゃんについて話されたエピソードの一つ。

仲良しスイカメンバー5人で集まった際に、天ぷらを調理していたかりんちゃんが、あろうことかノースリーブを着用、「上に何か着た方がいい」と言われてもそのまま揚げ続けた結果、案の定油がはねてすっごい火傷してた……というなんとも”らしい”エピソードだ。

その際、本人も「みんなが揚げたてのを食べるのが優先かなと思って…」と発言しており、なおのこと人柄というかポジションというかが垣間見える。

この行動は、上でも『ナウシカ』を例に取った「自分よりも他者を優先してフードを与えるのは、善人どころか聖人の域」に当たりそうだ。あちらと違い、相手が動物や自分より弱い立場の者ではないにせよ、他社を優先する原理は共通する。

「火傷」という自己犠牲も払っている辺り、なおのこと聖人さは増すように感じるが、思うにこれは、ただただそういった優しさや愛、母性といった感情に基づく施しとはまた異なる気がする。

ポイントとしては「何故かりんちゃんが料理をしているのか」だ。

理由は明白で、「料理が出来る」からである。他にも理由は挙げられるとしても、「他にもっと出来る子がいるけど、人に奉仕したいから担当している」ではいくらなんでも無いだろう。

つまりは「任されたから請け負っている役割」だ。少なくとも「聖人ゆえの自然な振る舞い」ではない。火傷も、自分の役割を全うすることを優先した結果としての犠牲なのだと言える。

さて、そんな役割としての「調理担当」。漫画やその類では、調理を担当するキャラクター、特に「チーム・パーティにおいて調理を担当しているキャラクター」は、そもそも料理人であったり、そうでないとしても料理が得意である、という設定が付与されていることが多い。これは単純に、上と同様「出来るから請け負う」のための理屈だ。

ここで例として挙げたいのは『ONE PIECE』のサンジ、『宇宙戦隊キュウレンジャー』のスパーダ。どちらもが元々料理人であり、パーティに加わってからはその腕を活かす調理担当に就いている。(『ONE PIECE』、フード理論的に良い描写・設定が充実してるんです)

さらにこの2人の共通点として、過去に飢えを経験した、という背景を持っている。サンジは、過去の海難事故による飢餓(恩人により、僅かな食料を自分にだけ与えられた)を、回想としてしっかり作中で描写されている。スパーダも設定として、過去に故郷の星を敵の組織に侵略され、食糧難を経験した(幼い弟、妹と共に)ことが語られている。

どちらも、その「自分が食べられなかった」経験、「大切な人が食べれられなかったのを目の当たりにした」経験を踏まえ、料理人を志したり、その信条を確固たるものにしている。

「食べる」ことの大事さを知っているからこそ「食べさせる」ことに信念を持っている、というキャラクター像だ。逆に考えると、人に「食べさせる」ことに積極的である説得力として、「食べる」ことの大事さを人一倍知っている(知った背景がある)、とも言える。

もちろんどちらもフィクションである分(両作品ともバトルに軸を据えている分)ヘビーめな設定になってはいるが、「食べさせる者」の意識としては大なり小なり通ずるのではないか。

つまり「食べる」からこそ、「食べさせたい」。人の「食べたい」を叶えてあげたい。かりんちゃんもそんな意識ではないか。

だから、にゃーの天ぷら食べたいアピールを受け「わかった、作るね」と答えるし、琴子のリクエストを受けてお皿いっぱいの揚げ物を作る。

また、自分自身が「美味しいものを(美味しい状態で)食べたい」。だから、人にも同じようにあってほしい。火傷してでも天ぷらを速やかに揚げることを優先したのは、そんな感覚からではないか。

ナウシカ』で見られた食べさせる行為は、食事自体を描くためのシーンではなく、あくまで愛や母性のメタファーとしてのものだ。仮にもっとふさわしい表現があれば、そちらが描かれたことだろう。

しかし、サンジ、スパーダ、かりんちゃんは「食べる」「食べさせる」こと自体に重きを置いている。そのために自身の役割を全うすることを信条としている。

…と、若干大げさな気もするが、あくまでこの共通点を推していきたい。かりんちゃんの行動は「聖人の振る舞い」というより「料理人の矜持」、そちらに近いのでは、ということが言いたかったのです。

筒井あやめはたこ焼きパーティーがしたい

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こちらは『乃木坂工事中』、「私のこと知ってください!24th新選抜クイズ」にて、筒井あやめちゃん本人による、自分に関するクイズに正解したメンバーへ、正解のご褒美を贈った際の発言。

あやめちゃんはご褒美にたこ焼き器をチョイス、「差し上げるので、(たこ焼きパーティーに)ぜひ呼んでいただけたら」との言葉を添えてプレゼントされた。

「たこ焼きパーティーがしたい」「そこに呼んでほしい」という、あやめちゃんの何ともささやかな可愛らしいお願いに、真夏お姉さん、梅澤お姉さんは一瞬にしてメロメロになっていた。

さて、彼女のこの願望も実に良いフード表現と言える。

こちらもベースは「同じ食卓を囲んで食事を摂ればそれは仲間」だ。その上で、あやめちゃんの求めているところを想像していくと、更に一つ掘り進めたものであることがわかる。

まず、たこ焼きパーティーというのはどういう場か考えてみよう。

単に同じ食卓を囲んで食べるだけでなく、その場でフードを作りながら食べる場だ。それも、互いに食べるフードを区別なく作る。

つまり、常に相手のためにフードを用意している状況である。これまでも度々出た「与える」という要素も含まれるのだ。お互いにフードを与え、与えられる相互関係が発生している場なのだ。

それと同時に食卓を囲むわけだから、「与え合う」ことを互いに理解し共通認識として育てていく場でもある。「腹の底を見せ合う」以上の、それを超えた関係の形成が行われている場だと思っていいだろう。

加えて、これは補足レベルだが、たこ焼きパーティと言えば「中に何入れる?」的なお遊び要素も定番だ。先述した「フードを用いたコメディ」、とまでは行かないが、フードならではの遊びである。

これによりたこ焼きが、単に美味しい不味いだけでなく、「楽しさ」を生み出すフードと化す。むしろ美味しくても不味くても、それをすべて「楽しい」に換えてしまうのだ。たこ焼きが、生きるためのもの、嗜好品、それらとはまた違った役割を果たせるフードということであり、それをまた共有する場でもあるのだ。

そんな場である「たこ焼きパーティ」をしたい、と言っているということは、あやめちゃんは(その場を通して)先輩たちとより仲を深めたいと思っている、そんな風に考えているのではないだろうか。

また、同じ回では、他の4期生メンバーも食関連のご褒美を用意していたが(遠藤さくらちゃんは激辛トッポギ、賀喜遥香ちゃんは栃木名物・おじいちゃんの皮膚ご飯、もといイチゴの炊き込みご飯)、どちらもスタジオに用意され、その場で実食された。

それに対し、あやめちゃんの場合はたこ焼きそのものではなく、あくまで道具を用意して、後開かれるその場を一緒に出来たら……という話だった分、やはりそのものが食べたいのではなく、その場を囲むことを求めていると思って間違いないだろう。

とりわけ、「焼くプレートを用意して」「クイズに正解した人に」「それを一回あげて」「たこ焼きパーティを開催してもらって」「そこに呼んでもらいたい」という、回りくどいくらいの段取りを踏んでいる辺りが、慎ましやかだし控えめな感じがしてまた良い。人柄がここにも現れているようだ。

こんな感じで、グループに入って間もない、また選抜メンバーにも入った4期生が、どのように先輩たちに歩み寄っていこうとしているか、それが実に良い形で現れたのが、この「たこ焼きパーティがしたい」である。

ちなみに、これに繋がるクイズの答え「初めて食べて感動した食べ物は(かりんちゃんが作った)かりんとう饅頭」も実にフード的に考え甲斐があるのだが、今回は文量の関係で割愛する。

最後に

気付いたらすごい文量……途中で気付いていましたが、その上でスマートにまとめることは諦めてしまったのでこうなりました。

本当は、色々考え甲斐がある要素を乃木坂さんは持っているので、もっと沢山挙げる予定だったのだけど、一つ一つに説明やら例示やら何やらが立て込んでしまったので、一旦以上とします。

せっかくなので、簡単にいくつか題目だけここに残しておくので、それがフード表現としてどういうことを表すのか?というのを良かったら考えてみてください。

・齋藤飛鳥はべちょべちょのご飯が好き
・与田祐希が食べると、口の周りがべちょべちょになる
・生田絵梨花はIHヒーターに直接溶き卵を流す
・堀未央奈は明太子を想って泣ける
・みなみのパンの好きなとこ
・新内眞衣が楽屋で食べるのは、いつも納豆
・「グルメ食イーン決定戦」の対決で、日村に口の中を見せなければならない
・乃木坂46の楽屋裏には豪華なケータリングが用意されている

以上!



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