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乃木坂メンバーの水着カットを「こういう目」で見ている

2023年7月11日に発売を予定している3期生メンバー・久保史緒里ちゃんの1st写真集『交差点』。公式ツイッターアカウントより本日(6月9日。ロックの日)、初の水着カットが先行解禁された。

とても良いッッッ!!!

あまりにも良すぎて、結局noteをこうして新しく書き始めてしまっている。長文書くの楽しい。

じゃあ、いったい何が良いのか。布の少なさ。皮膚の多さ。否定はできないけどそうじゃアない。

水着姿とは「夏」なのだ

乃木坂46ほか坂道メンバーは、通常は水着グラビアをやらない。個人ないしグループの写真集にて、「解禁」なんて文言とともに水着姿やランジェリー姿を披露しているのが多くある流れだ。

そこら辺の是非はさておき、個人的には水着カットが「とても好き」である。

じゃあ、いったい何故こんなにも好きなのか? 布の少なさ。皮膚の多さ。否定はできないけどそうじゃアない。

水着姿とは「夏」なのだ

上に貼った久保ちゃん写真集『交差点』のカットをはじめ、乃木坂メンバー写真集の水着カットは、そのほとんどがロケーションが「海」や「プール」である。一部例外はあったとしても、そのほとんどが「海」や「プール」にて撮影を行っている。

言い換えればそうしたカットは、「海やプールで楽しそうにする"この子"」を切り取っている。そうした価値を携えている。

そんなロケーションでの、楽しそうにしている様子(小学生の頃、プールの時間にテンションが上がるようなそれ)だったり、水しぶきに慌てている様子、顔を覗かせてブクブクする様子、浮き輪に腰を沈めて揺蕩っている様子、日差しを眩しそうにする様子。水辺×"この子"を切り取る手段としての水着カット。

逆説的に言えば、「海」や「プール」というロケーションならではの様子を切り取るにあたっての、必然的なファッションとしての水着

単に「水着姿である=布が少なけりゃいい」ということではない。総合的なシチュエーションの構成要素として「服装が水着である」。すべてが必然的な「夏」な様子がとても良いからこそ、水着カットが「とても好き」であるのだ。

水着がシチュエーションの構成要素としてのファッションであるために、ファッションとしてのプラスアルファ、あるいはシチュエーション全体が、より一層な相乗効果を生んでいるカットも、これまでの写真集から、いくらでも取り上げることができる。

すぐに思いついたのは、中田花奈ちゃんがグループ卒業前に出した写真集『好きなことだけをしていたい』の47ページ目。少し前からプールでのカットが始まっての、白い水着になった2枚目である。手元で開いてください。

(本誌内、こちら↑のカットが見開きにある次のページ)

この衣装全体に共通する話になるのだが、特にこのカットが好きだ。

花奈ちゃんは、水着姿であるほか、大きめのイヤリングとジャラジャラとしたブレスレットをしている。楽しそうな笑顔や、腹筋の塩梅もまた良いが、そこではなく身に着けたアクセサリー、水着と同時にそれを身に着けている、ということである。

そうしたアクセサリー、身に着けた装飾(の多さ・派手さ)が生む印象が、「中田花奈の水着姿」であることと同時に、「こんな感じのお姉さん」なイメージを提供してくれている。

まるで水着姿を恥ずかしく思っていないような、オープンでフレンドリーな、ちょっとしたチャラみも含めたラフさ、「気軽な態度」そのもの「そんな人(の魅力)」を、演出としてこのカットから感じてしまう。それこそ前の青い水着姿ともまた異なる(水着だからどちらも同じ、では決してない)、アクセサリーを含めたファッションによって狙い定めた一つの「見せ方」がそこにある。伝わるだろうか。

続いては、高山一実ちゃんの1st写真集『恋かもしれない』の88ページ目。7ネット限定表紙にも選ばれたこのカット。手元で開いてください。

Tシャツを水着の上に着て、砂のついた手を楽しそうに見せつけている。この「楽しそう具合」が実に良い。

Tシャツを着ていることを考えてみると、実に深みがある。

その理由は、日焼けを気にしているからだろうか。濡れた体を風が冷やすからだろうか。水着姿をそのまま見せることを気恥ずかしく思っているからだろうか。

このように、1枚布で覆っていることにいくつかの意図を(実際のそれに限らず、演出として)想像できる。それもまた「必然的なファッション」

しかし、このカットでは、そんなてらいが現れていない、無邪気な笑顔が切り取られている。両手を開く姿は、砂まみれな様子を見せつけているようにも、その砂をパッと放ってこちらに浴びせる悪戯のようにも見える。

そこにはTシャツを着ている所以としての「気恥ずかしさ」「困ってる感」が存在していないのだ。瞬間的に表れた、楽しそうな一実の様子、一実の中に生まれた楽しさ、その瞬間だけがこのカットには封じ込められている。伝わるだろうか。

3つ目は鈴木絢音ちゃんの1st写真集『光の角度』の26~29ページあたり。以下カットをちょうど挟んだ前後のあたりである。手元で開いてください。

「水上コテージで撮影」と記されているが、この写真集はタヒチを舞台に撮影されており、まさしく豊かな自然と海原が多く収められている。

「南国ビーチ」なロケーションでの水着を着た絢音ちゃんは、腰に薄いスカートを巻いていたり、頭に花飾りを付けたりと、思わず『ロマンティック浮かれモード』と何の関係も文脈もなく評したくなるような、タヒチづいたファッションを楽しんでいる様子が見て取れる。

そのほかのページでも、ハイビスカス柄のスカートを身に着けていたり(面白いポーズを取ったり)、ジャラっとした長いネックレスを下げていたり、日本での普段の生活で彼女があまりしないであろうファッションを楽しんでいる。

そうした、絢音ちゃんが南国にいるからこその、写真集撮影だからこその、ひと時のバカンスとしての姿が封じ込められている。水着姿は結局のところ、その延長戦としてある前後の一つなのだ。

その最たるものとして、生駒里奈1st写真集『君の足跡』がある。コンセプタブルに作られたこの写真集、スクール水着を着用した様子は62ページごろから現れる。手元で開いてください。

彼女の10代最後の姿を収めるにあたって、そのテーマを「学生姿」にスライドした結果としてのスクール水着なのだ。夏のセーラー服、冬のブレザー、腕まくりしたブラウス、体操服、ジャージ、そして、という流れだ。

絢音ちゃんの南国・タヒチは、撮影地としてのロケーションであったが、実際の校舎で撮られたこの作品においてシチュエーションは「設定」として存在している。そうした思想を踏まえた必然的なファッションとして水着がある

成長している過程で着るからこそ儚いし危うさもあるし、だけど健康的。そういったものを一気に表現できるものだと思います

生駒ちゃん自身がスクール水着(を着ることの意義)について上のように語っている。テーマに基づいた必然性の、もっと本質に迫った視点と言えるだろう。

といったように、単に布が少なく皮膚を多くしたって構わない、ということではない。彼女たちにとって、今だからこそ、この場だからこそのファッションという、幅の広がりとして水着姿がある

極端な話をすれば、吉本興業のお笑いコンビ・マユリカがラジオの企画から出すこととなった水着写真集も、乃木坂46メンバー(をはじめとした様々な水着カット)の放っている魅力とざっくり同じものを携えている。

違いがあるとすれば、彼らはそれを「フリ」として「意識的に」用いている、という点だ。しかし結局「なんだかわからんけど」「ちゃんと携えちゃっている」。それは、単に中谷さんと阪本さんの元来の可愛さだけではなかったりするわけだ。

マユリカの水着写真集が「あり」ならば、メンバーのそれにおいても、自分が読者として何を楽しんでいるかがわかってくる。要は、布が少ないだの何が大きいだの、身体的特徴をばかりを楽しもうとはしていない。少なくとも「そのためだけ」ではない。

そういう意味では、プールに入って制服風のブラウスをはだけた中に白い水着を着用しているグループ1st写真集『乃木坂派』は、やおら漂うインモラルな雰囲気がむしろノイズに思えてくる。

各々好きな水着を身に着けて、パーカーなんかも羽織って、波打ち際で楽しそうに遊んでいる2nd写真集『1時間遅れのI love you.』のほうが、より見ていて楽しいのは明らかだろう。

みんなでワイワイやってる、まさに「夏休み」「バカンス」な空気感がこそ、一連のカットの主役となっているためだ。同時期に撮影・放送された『乃木坂工事中』in グアムも実質的な姉妹作品として、死ぬほど楽しいひと夏を提供してくれていた。

しかしながら、その身体に目を引かれることが無いわけは無い、とあえて宣言しておこう。そこは嘘をついてもしょうがないので、潔く『1時間遅れのI love you.』から例を挙げてみる。

54ページには、山崎怜奈ちゃんのワンショットがある。手元で開いてください。黄色いパーカーを着つつ、海に足先を沈めた彼女の長く伸びる両脚が露になっている。華奢な肩、細い腰も布越しに見て取れる。

この写真集が発売された2016年、年始から乃木坂46に興味を持ちメンバーを一人ずつ覚えていった身としては、これによって初めて山崎怜奈に惹かれてしまった、大きなきっかけになったカットである。

『今、話したい誰かがいる』の制服姿が、(メンバー全員の)ファーストインプレッションであった。そこから『ハルジオンが咲く頃』を経て、初めての夏。

要するに、「こんなに脚を見ることがなかった」わけである。ものの見事に「素肌にドキッとした」。当時は山崎怜奈ちゃんに対し、歴女や慶応大生という肩書から実情よりインドア・文系な印象を持っていたので、尚更ギャップがあった。

しかし、こうした身体性もまた、山崎怜奈ちゃんやメンバーたちが元来持つ(あるいは鍛えて身に着けた)ひとつの魅力・武器である。それを肯定的に捉えること自体は、間違ったことではないはず。

話を戻すと、もろもろを根底で支えているのは(全てではない、と改めて念押しするが)、やはり「海」や「プール」というロケーション、そして水着姿そのものが物語る「夏」だ。

ロケーションそのもの、「そこに登場人物として乃木坂メンバーがいる」とまで言ってしまえるかもしれない、その強いロケーション。

それは「幻想としての夏」である。蜃気楼や白昼夢のような、熱にうなされて浮かんだ映像のような、入道雲が青空高くへと伸びていく、美しいきらめきだけで構成された、ノスタルジーと共にある「すぐに通り過ぎてしまいそうな/もう通り過ぎてしまった夏」。

大瀧詠一『A LONG VACATION』のジャケットのような、憧れの中にある夢幻としての「夏」。

そこにいる水着姿のマドンナが、乃木坂46のようなアイドルであることが、よりいっそう現実感を薄れさせてくれる。

いや、そこまで大げさなもんでもないだろう、と思わなくもないだろうが、普段は見られることがない希少さも一因に、手の届かない存在である彼女たちの姿はやはり夢幻である。

「みんなで海行こーぜ!」的な青春を自分は経験していないからこそ、な気がしてきていなくもないが、ともかく「そんなロケーションにいる彼女たち」、あるいは「彼女たちがいるそのロケーション」はやはり「幻想としての夏」

結局のところ、頭の中のイメージが積み立てたものかもしれない。それは例えば音楽を通して培われたものだ。

乃木坂の曲で言うならば、『ガールズルール』でも『太陽ノック』でもなく、むしろ『逃げ水』や『設定温度』。ポップな方向では『スカイダイビング』。

上に上げた大瀧詠一の『A LONG VACATION』から挙げれば『君は天然色』や『Velvet motel』。山下達郎ならば『LOVELAND, ISLAND』や『僕らの夏の夢』。サニーデイ・サービスの『サマーソルジャー』や『江ノ島』。

フジファブリックであれば、『若者のすべて』ではなく、同アルバムの『ペダル』。ほかのアルバムから選べば『陽炎』。近い頃の曲で言うと、ドラマ『ウォーターボーイズ』主題歌、福山雅治の『虹』。

学生時代に出会ったBase Ball Bearの『ELECTRIC SUMMER』『ドラマチック』、ナンバーガール『透明少女』、竹内電気『sexy sexy』、更にはゆずの『夏色』も含まれるし、『熱唱オンエアバトル』で出会い愛したAJISAIの『はづき』と『夏の日の終わり』、TRIPPERの『Summer様サマ』も無視できない。

自らの活動を「永遠の夏休み」と謳ったバレーボウイズの『タイトルコール』『渚をドライブ』『セレナーデ』も近年の作品ながら当てはまる。

どこか自分の手が届くよりも遠くにありそうな、イメージが形を成した「夏」が、水着カットから感じずにいれない。身もふたもなく言えば、「自分にとって現実でない」からこそ感じ取れてしまうのだろう。

漠然としているが、漠然としているからこそ、かもしれない。〈気づいたら俺は/なんとなく夏だった〉が答え、かもしれないわけだ。

(これが言いたかっただけ)

「じゃあ同じくらいの布面積のランジェリーはどうなのよ?」という声が聞こえた。

あくまで「個人の考えです」と念押ししておきたいけども、同じくらい布の少ないランジェリー姿は、個人的にはそこまであまり魅力を感じていない。いや、実際見てドキドキしてはいるが、しかし「水着カットとは明らかな違いがある」と言いたい。

ここまでの文脈に準じて言えば、「夏じゃない」からだ。

具体的に言えば、よくある「ホテルの一室」という場所で撮った写真に、あまりシチュエーションとしての良さを感じないからである。

室内というロケーションって、どこか無機質。その「無機質さ」が(あくまでも自分の)興味を薄れさせてしまうのかもしれない。海やプールといった「夏」にある光や音や風や温度が、閉ざされた室内で起きはしない。

また「ホテルの一室」で撮られたメンバーのランジェリーカットは、大概にして、感情表現を抑えたフラットな表情だったりする。

その憂いた目線に引き込まれてしまいそうになったり、あるいは、はにかむ様子が垣間見えたりもするが、ともかく多くが「抑えめ」だ。

弾けた水にわーってなってたりとか!!! ジリリと照らす日差しや爽やかな風を顔に受けて気持ちよさそうにしている感じとか!!! 手についた砂の粒を不思議そうに見ていたりとか!!! そういうのがない!!!!!

自然という、人の意志を超えて変化するものの中にいるからこそ、人は良い表情を見せるわけよ!!!

それ!!! 「夏」がメンバーに与えるものはそれ!!! 神宮の大雨があんなにも楽しいのだって、結局そういうことじゃん!!!?

「水着である必要なくない?」知らない!!

ただ、水辺において一般的に考えれば、普通に奮発した私服とかお気に入りの靴とか身に着けてたら、水に近づきたくない(濡らしたくない)だろうと思うので、水に近づく抵抗をなくすための必然的な衣装として、やはり水着がある。

ってなわけで、終盤熱くなってしまいつつ、感じていたことは一通り出力できた気がするのでここまでとする。

「脱いでるか脱いでないか」ばかりじゃないのよ、興味がないとはとても言えないけど、それしか視点を持っていないわけじゃないよ(ひいては、他にそういう人も割といると思うよ)、という補助線になれば。

新内眞衣2nd写真集『夜が明けたら』撮影時、海での水着撮影の時に寒すぎて若干キレていた(※曖昧です)という新内さんのエピソードは、このnoteの本旨とはまったく関係ないんだけど、面白すぎるので締めとして記しておきたい。暖かいスープを飲ませてやりたいんだから。

以上。




明日飲むコーヒーを少し良いやつにしたい。良かったら↓。