自分の人生の輪郭がぼやけないために。

人を求める時、その理由がどこまでも”一人でいる為”に帰結する。

未だに三日間くらい人に会わないと、”人間が存在している”ということに感動してしまう。狭い道で誰かとすれ違うとき半身で避けられることに感動する。

誰かがいないと、自分と世界の境界線があやふやになって、全部自分のものみたいに感じてしまう心地悪さがある。

私のものではない人生が同時進行しているという事が妙に心地よくて、世界に私だけではないのだなという安心感。私が人を求める時、人といることによって、私は人と決別することが出来るからなのだろうな。

何でここまで自分にこだわるかな?と思ったのだけれど、“自分”とは生存戦略だ。

外界に対して適切な反応をする為には一定の人格的統合性が保たれてる必要がある。多重人格もある一定の外界に対する反応によって、対応するための生存戦略だ。人格を複数作ると一つ一つがごく単純の人格になり、自分のなかでの葛藤がなくなる。
となれば、「私」のその目的とは「いのちの維持」だ。
「いのち」は自身を存続させる為に、環境にあわせて人格を選ぶことで生存戦略をする。
(いのちが”私”をしているという感覚)


今の人格•アイデンティティでは対応できなくなって、どんづまりになった時、生きる為に大きな変更を強いられる。それは実存的な問題だ。
ただ、今まで自分を守る為にアイデンティティを確立してきた人はその変更に大きな苦行を強いられる。

人格はインプットとアウトプットの総合作用の結果である。様々な結果により、システムがその様な性格を持っているのが人格である。

「私」に出来ることは世界に対する姿勢である。
それが唯一、私が私自身を私たらしめることができるもので、それは人生の帆のようなものでもあるのかもしれないね。




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