幸せであるのかどうなのか

僕は自己肯定感の欠片もなく大した努力もせずその癖人を妬み承認欲求だけはやたらと大きいクズ人間であることを先に述べておきます。

他人が幸せであることは良い事だと思っています。人の幸せを祝いたいだとかその辺の感覚は普通だと思いますし、幸せを破壊しようだとかそんな事を考えているわけではありません。それはある意味どうでもいい事です。

僕が幸せであるかどうかというのが非常に大事なことです。

現状の自分を整理してみると、生まれてからは一応トントン拍子で進んできています。家庭環境も良好ですし、客観的に見ても普通の子供が育ちそうな環境ではありました。事実として何事もなくここまで来ています。

幸せなはずです。幸せなはずなのです。理屈の上では。

でも僕は幸せであると思えませんでした。残念ながら。青年期特有の「満たされない感」が原因で、そのうち落ち着くだろうと思っていましたが、落ち着くどころか悪化し始めています。そして、この感覚とは一生付き合っていくことになるのだと悟り始めています。

友人に恋人ができる。あの人はゲームがとても上手い。あの人はスポーツがとても得意だ。あの人は交友関係が広い。・・・・・・etc.

これらすべての要素が僕を蝕みます。あっという間にコンプレックスの塊になってしまいました。運動音痴でコミュ障で彼女なし歴=年齢で……

しかし、一番恐ろしいのは「勉強面」ではそのコンプレックスを感じなかったという事です。何故か?その理由もわかっています。

自分の努力が足りなかったから

自分は少なくとも勉強においては努力の重要性を知っていました。毎日10分だけでも机に向かえばテストの点が大きく伸びる事だって理解していましたし、それを実行したときには肌で実感していました。(2.3年でサボりすぎて最下位付近まで落ちましたが)

この理屈が、前述した「僕を蝕む要素」でも当てはまるという事は分かっている筈なのです。ですがそれからは逃げ続けています。

二度と治らないのではないか

僕が抱える「幸せではない感」は、その問題を解決した経験が一回でもあれば解消されていくはずなのは勉強の話からもあきらかです。

であれば、一個一個の問題に向き合って解決しようと取り組んでみるのが模範解答ですし、それは理屈としては間違ってはいません。

でも僕は「やらない理由」を探し求めています。それはそれで問題を放棄するという形での解決が見込めるからです。

「やらない後悔より、やる後悔」なんて言葉を先生になんども投げかけられていたのを思い出します。ですが僕は「やる後悔」をしたくはありません。

例えば恋愛。僕みたいな偏屈な人間は同性とならそれなりにやっていけますが、異性とのコミュニケーションが異常なほど苦手です。交友関係を構築するだけで精一杯なんです。

必死の思いで作り上げた関係なら、そのまま現状維持したいと思うのが自然ではないでしょうか。少なくとも僕はそう思ってしまいます。

その次を踏み出すことに二の足を踏んでしまいます。

もし次を踏み出して、それで関係がぎくしゃくしてしまったら。

そのリスクがある以上前には進めません。

僕はそのリスクを分かっていて次を踏み出せる人を尊敬します。     関係をぎくしゃくさせない術を持っている人を尊敬します。

でも僕には踏み出せませんし、そもそも感情表現があまりにも下手であるという致命的な欠陥があります。思っていても声に出ないのです。

自分が気持ち悪くてしょうがない。でもどうにもなりません。

こんなコンプレックスがあるもんだから、インスタのストーリーのいかにもな青春グラフィティなんて見ていて耐えられません。精神崩壊します。

でも、ネット上の投稿ですら逃げ出すようになったらおしまいだ、と言い聞かせて毎日眺めています。

いつかの自分に必要な痛みだと言い聞かせて。

病んではいないはずです。リスカもしていませんし自殺未遂もしていません。電車を見ても飛び込もうとは思いません。死ぬのは怖いし痛いのも嫌です。

精々クズなりに前を向いて生きていきましょう。と思っています。

我ながら酷い記事だ。

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