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アニメになった児童文学から見えてくる世界<24>: 少年の日の思い出

しばらく前のことですが、前回は世界名作劇場第一作「フランダースの犬」について語りました。

今回は第二作「母を訪ねて三千里」を飛ばして、第三作目、1977年の「あらいぐまラスカル」のお話です。

子供の頃に世界名作劇場を大変好んで毎週欠かさず見ていた1980年代前半の作品(フローネ・ルーシー・アンネットなど)に深い思い入れを持っています。

今こうして大人になって、子供の頃に見ることのできなかった作品をインターネット配信で見直しているわけですが、これまで見たことのなかった有名な「あらいぐまラスカル」、今回初めて見て、やはり大きな感銘を受けました。

ハーモニカの導入部、そしてアメリカらしさあふれるバンジョーの伴奏が特徴的な主題歌もどこかで聞いたことのあった懐かしい歌でした。

♪ Hidy Hidy Little Rascal
Like the wind, O, Little Rascal
Hidy Hidy my friend Rascal
Come with me, O, Little Rascal 
Here Rascal♩

♪ かみさまありがとう、ぼくにともだちをくれて…
ラスカルに会わせてくれて♩
ラスカルに会わせてくれて♩
主題歌「ロックリバーへ!」
Hidy は掛け声、または挨拶
Howdy=Hello; How do you you がなまったアメリカ英語の地方方言

って歌いたくなるくらい、ラスカル全52話鑑賞は素晴らしい体験でした。

英語ではRascalは、アクセントが最初のAにあり、カルの部分のAは消えてしまうか、シュワーという弱い母音になり、clという子音連結となり、日本語耳には「ラスコー」と聞こえてしまいます。

最後のLはウのようになり Rascoeラスコーとほぼ同じ音に聞こえます。

歌にある通りに、わたしもまた可愛いラスカルに会えてよかったのですが、自分の場合は、ラスカルの飼い主である11歳のスターリング・ノース少年に会えたことが本当に素晴らしかった

英語版もあります。日本人歌手ですが綺麗な発音でとても楽しめます。

スターリングという少年

世界名作劇場の主人公たちに共通する特徴は;

  • 孤児であること(両親、または片親がいない、または保護者である親族のいないところで主人公たちは苦労して成長する)

  • 友達と呼べる仲の良い動物がいつもそばにいること(ペットがいないのは「トム・ソーヤの冒険」のトム、「赤毛のアン」のアンや「若草物語」の四姉妹など、有名な児童文学が多い。どれもペットが必要ないほどに強烈なキャラの主人公たちの物語。主人公の年齢が上のジュディやマリアの場合も動物がいない。児童文学にペットが登場するとは限らないので、しばしば原作にペットがいない場合、ペットたちはアニメオリジナルなのです。「ポリアンナ」のチップモンクや「ロミオの青い空」のピッコロ、「母を訪ねて三千里」のアメデオなど)

母親を物語前半に失っだがゆえに、あらいぐまのラスカルを溺愛するスターリングは、上記の二つの特徴を兼ね備えていますが、私が注目したのは彼の育ちの良さ。

貧乏な家庭出身の子供たちが主人公になることが多くて、多くの作品で大人たちが怒鳴りあったりしますが、「あらいぐまラスカル」のスターリングの家庭は裕福で、スターリングは末っ子。

両親ともにかなり歳を取っていて(上の姉は嫁いでいて、下の姉は大学生)父親は銀髪です。

だからでしょうか。

スターリングの父親は上品で決して怒らず声を荒げることなどない本当の紳士。

スターリングは動物をたくさん買うことを許されていて、本当に恵まれた子供。でもそんなスターリングの母親は癌を再発させて、まだ幼いと言っていい11歳のスターリングを遺して世を去ります。

そして父親との二人暮らしには大きな家で暮らすようになって、言いようのない悲しみゆえに初めて感情を大きな声で表に現すのです。父親に対して怒鳴るスターリング。

でもそんな自分を恥じて、大きな声を出してごめんなさいと謝るのです

これは当たり前のことではありません。

隣家のひどい運転をする近所迷惑なサーマンさんはいつだって怒鳴り散らしています。

大きくなって手の負えなくなったラスカルを檻に入れねばならなくなり、感情的になり、スターリングは友達のアリスに対して大きな声を出してしまう。

でも怒鳴ったりして大きな声を出したりしてごめんと、後できちんと素直に謝るのです。

怒鳴られてばかりだった「フランダースの犬」のネロ、「少女コゼット」のコゼット、「小公女セーラ」の落ちぶれたセーラやベッキー、「ロミオの青い空」の煙突掃除少年たち、「ペリーヌ物語」のペリーヌなどなど、世界名作劇場の子供たちは大人たちのパワハラ、モラハラの犠牲者ばかり。

また、いい子ばかりの世界名作劇場主人公たちの中で、唯一の等身大の子供だと言える時々意地悪なアンネット。彼女は大きな声で怒鳴りますが、こんな風にスターリングのようになかなか謝ったりはしません。

さっきは怒鳴ったりしてごめんなさい

劇中の大人たちもあまりこんな言葉を喋りません。

スターリングだけ。

新鮮な発見でした。

わたしもまた我が子をしかりつけますが、怒鳴ったりしてごめん、とは我ながらほとんど言いません。反抗期のティーンの我が子とは怒鳴りあうことも。

大きな声を出すことは下品で相手を傷つける悪いことである

「あらいぐまラスカル」は大人になったスターリング少年の回想記が原作なのですが、スターリング少年を育てた環境と両親のしつけの素晴らしさに唸ってしまいます。

わたしもいつだって彼のようでありたいものです。

怒りは人間の大事な感情、でもそれを人にぶつけてはいけない。

小公子セディは怒鳴りませんが、小さくて弱いものを守るために大きな声を出すこともありました。小さな伯爵セディロード・フォントルロイにはノーブレス・オブリージュがあり、そうしなければいけない立場にあるのですが、セディは運命と戦わないといけない特殊な人生を送っている。

本当に穢れのない純真なスターリング少年。セディのように大きなドラマに巻き込まれることもなく、本当に普通の日常の中で生きるスターリング。時々巻き込まれる事件は友達のオスカーやアリスとの関係だったり、いじめっ子のスラミーとの諍いだったり、本当に普通の少年時代の物語。

怒鳴ったりしてはいけないと教わり、そういうふうに生きているスターリング。

彼のような少年は普通かな? 

スターリングの父親の年齢に等しいわたしは、こんなスターリングを見習いたい。

動物と人間との距離

「あらいぐまラスカル」の原作は

Rascal a memoir of a better era
「ラスカル: 良き時代の回想記」という意味

というもので、作者はスターリング・ノース (1906-1974)。つまりアメリカ中西部ウィスコンシン州でのスターリング少年の野生アライグマをペットにしていた少年時代の思い出メモワールなのです。

題名にはラスカルの名が掲げられていますが、ラスカルとの思い出なので、やはり主人公はスターリング。

アニメと原作は設定がかなり異なるのですが、アニメ版でも原作でも、作品は少年時代の大切な一年間を、普通は人になつかぬアライグマと過ごした貴重な体験の記録というものです。自伝なのでノンフィクション。

主題は決してラスカルの可愛らしさやラスカルとの楽しい暮らしを面白おかしく書き綴るというものではなく、一年のうちに急速に成長してゆく野生動物と子供である自分自身との距離。自分とは何かをラスカルを通じて自覚すること。それがテーマ。

アライグマは犬や猫のように飼い慣らせる動物ではないのです。

世界名作劇場に登場した立派な犬たちはまさに主人公たちの相棒で、困った時には助けてくれて忠実な存在でした。「フランダースの犬」のパトラッシュも「牧場の少女カトリ」のアベルも「ペリーヌ物語」のバロンも「家なき子レミ」のカピも「南の虹のルーシー」のディンゴのリトルも本作のハウザーも、そうした犬たちでした。

アライグマを飼う

ラスカルは赤ん坊だったのでスターリングに飼い慣らされたのです。

でも犬ではないラスカルは、どんなにスターリングがダメだと言っても本能のままに行動して隣家の農作物は食い荒すし、好きな食べ物を目の前にすると、どんなに制御してもいうことを聞きません。

猫のように飼い主に親しんで一緒にベッドで寝たりしても、やはりアライグマはアライグマ。

温厚なスターリングの父親もスターリングも、ラスカルの粗相を決して咎めません。教えてもいうことを聞かないことを知っているからです。結局は檻に入れられるようになりますが、ラスカルは基本的にやりたい放題。

そんなラスカルをペットとして飼い続けることは特別なこと。

というのは母を亡くしたスターリングにはラスカルが必要だったのです。スターリングの周りには、スカンクやカラスや犬がいる。それでも友達がいないわけでもない。やはり動物たちは家族が普段は周りにいない寂しいスターリングの家族代わりなのです。

動物を見ていると癒されます。

成獣となったアライグマは凶暴ですが、小さなうちは本当に可愛い。

小さなラスカルは何をしても仕草が可愛いと許される
蜂蜜も大好き

でも飼い主となったスターリングはいつかはラスカルを自然へと返してやらないといけないことを知っている。だから物語の後半はラスカルを森に返さねばならないという義務感の時限爆弾をスターリングは抱えるようになるのです。

ラスカルと一緒にいつまでも暮らしていたいけれども、いつか今の生活を終わらせないといけないという葛藤。

怪我した白鳥を保護したアリスは飛べるようになったカゴの中の白鳥を
手放したくないと駄々をこねますがスターリングは
いつかラスカルも野生に返してやるのが
ラスカルにとって一番幸せだとアリスに語ります
野生と人間の文明との距離がこの作品の大きなテーマ

出会いと別れの物語

人生とは出会いと別れで出来ている。始まりがあれば終わりがある。

物語後半、父親の事業の失敗から、スターリングはブレイルスフォード(架空の街)を去ってウィスコンシン州最大の町である大都会のミルウォーキーMilwaukeeの中学校へと進学します。

この間、名作映画「スタンドバイミー」を少しばかり語りましたが、あの物語も小学校から中学校への過渡期の物語でした。ラスカルのパイ食い競争のことにも言及しました。

誰にだってこんな時期があるものでしょうか。

人生の断片のような、物語が終わってもハッピリーエヴァアフターにならないで、終わらないでそのまま次の時間へと流れてゆく物語。

一見楽しそうで愛らしい動物との交流を描いたように見える「あらいぐまラスカル」という作品は切ない。

小説家の小川洋子や村上春樹が得意とした喪失の物語に通じているのかもしれません。失ってしまったものは美しく見えるし、失って初めてその価値が理解できるものなのです。

夕暮れ
カヌーの上でのラスカルとの別れ

ラスカル原作より

世界名作劇場アニメは必ず原作を日本風に改変するのが決まりで、アニメを見てから原作を読むとそのあまりの内容の隔たりに驚くこともあります。

中には改悪とも呼びたくなるものもありますが、文化が違うので広く日本の視聴者に受け入れられるようにするためにはある程度の変更は必要です。

ラスカルの設定の改変もまた、かなり大胆なものでした。ウィキペディアにも原作との相違は少しばかり解説されていますが、わたしが見つけて気になった相違点をあげておきます。

今回は英語を読むのではなく、以下のオーディオブックで原作を鑑賞しました。

  • 原作は1918年に始まりますが (1906年生まれの作者は11歳)、アニメで母親が亡くなったのは1914年。墓碑にはサラ・エリザベス・ネルソン・ノース 1866-1914と書かれています。実は原作はスターリングの母親は七歳の時に亡くなったと語られるのです。つまり四年前の1914年。アニメは母親の死を描いていますので、ここで舞台となった時間がずらされています。しかしアニメではスターリングは十一歳のまま。これはアニメ版の独自設定。ラスカルは母親のいなくなった年に出会ったのだと改変されています

  • オスカーの両親の設定。原作ではスターリングには母親が最初からいないので、ノルウェー出身の彼女が精神的にスターリングの母親のような役割を担っていると語られます。彼女は母国語のアクセントの跡を全く感じさせぬ完璧な英語を喋るのですが、アニメ同様に粗野な父親はドイツ語とスウェーデン語を混ぜこぜにした英語を喋ります。こういう人はわたしの周りにも実際にたくさんいるので、わたしにはなんとも言えぬリアリティを感じさせます。

  • スターリングには第一次大戦のフランスの戦場に出征している年上の兄 Herchel ハーシェルがいます。二人の姉が家を既に出ているのはアニメと同じ。文才ある次女のジェシカは原作ではシカゴ大学の大学院生。やはりアニメは4年年齢をずらしていて、ジェシカは大学生。

  • ラスカルとの初めての出会いは五月。主題歌は「六月の」と歌いますが、きっと出会って次の月にラスカルを自転車に初めて乗せたという設定でしょう。芸が細かい。アニメでは母親が猟師に打ち殺されて孤児になった生後間もない乳飲み仔ラスカルをスターリングが飼育するのですが、原作では犬のハウザー(ウォウザーWowser) がアライグマの巣を見つけて、スターリングとオスカーの二人が母親に置いてけぼりにされたラスカルを生け捕るのです。

  • 上のお姉さんの名前はセオドラ・モード Theodora Maud。モードは英国桂冠詩人テニスンの有名な詩「Maud」から取られたのだとか。テニスンは英語世界では今も広く読まれるヴィクトリア文化を代表する詩人。これからもっと読んでみたいですね。

  • スターリングの父親ウィラードは、アニメほどには人格者ではなく、息子スターリングによると天性のギャンブラーで、農場を一つ手に入れるとそれを手形にまた新しい農場を買う資金を銀行から借りるという、なんだか自転車操業のような経営を繰り返している人物。母親もこうした綱渡り的な生活の中の心労が死因だったと息子は理解しているのでした。子供に大きな声を出して叱ったりしない紳士的な父親像はアニメオリジナルなのでした。

  • 世の中の理不尽さを体現しているような俗物で自分勝手で思いやりのない、危ない運転技術で車を乗り回しているサーマンさんは原作では牧師さま!Reverend Thurman!アニメでは人格者らしい別人の牧師が登場しますが、原作の牧師ガブリエル・サーマンは、車と馬のドニーブルックと競争したり、害獣としてラスカルを撃ち殺そうとしたりします。猟銃を抱えてアライグマを追い回す牧師って本当にアメリカらしい。

  • ガールフレンドのアリスはアニメオリジナル。つまりスティーヴンソン家に関わる全てのエピソードもまたオリジナルなのです。もちろんフローラと結ばれる青年カールも原作には登場しませんが、バート・ブルースという若者ではない湖のほとりに山荘を持つ人物は登場します。カールのモデルですね。

  • パイ早食いコンテストはアニメに描かれた通りに、ラスカルが乱入して皆が大笑いするわけですが、スターリングは失格ではなく特別賞として野球選手のサイン入り色紙をもらっています。その場面は It was a delicious victory と表現されていて、自伝作家スターリングの筆も冴えていますね。美味しい勝利だったわけです。

パイを平らげて大満足のラスカル
  • 第八章で十二月になり、冬が訪れて「Case weather」と呼ばれる、栽培されているタバコを湿らせる自然災害が発生します。叔父さんの農場が大変なことになり、スターリングたちが駆けつけますが、アニメのようにお父さんの農場が台風によって壊滅するわけではないので、物語はアニメのようにドラマチックに終わりを迎えません。スターリングは別の街にゆかないで、新しい家政婦さんがやってきて動物たちが家の外に放り出されて生活が変わるのです。

  • お父さんは最後に経営難に陥るわけではないのです。でも世界名作劇場の父親って、いつだって理想的な父親像を描き出そうとしていたのだなと改めて思います。フローネやアンネットの父親は類い稀なる人格者。だからでしょうか。キャラデザインが同じ堀さんなので、毎回同じ顔の父親なのに、南の虹のルーシーの父親は頼りなくて生活力がないけれども、やはり優しくて子供たちには優しい父親なのです。

  • 物語はラスカルを湖の向こうに放して、スターリングはラスカルを逃したところから大急ぎでカヌーを漕いでゆく場面で終わります。原作にはラスカルと生活した時間のことを考察したり部分などは何もない。あっけない幕切。原作はリポートのようにたんたんと、これがこうしてこうなったということが語られるばかり。原作は文学的価値には乏しいかも。ウィスコンシンでの少年時代の思い出という記録としては価値があっても。

原作からの挿絵

害獣であるアライグマ

ウィキペディアによると、アニメの大人気を受けて、放送後の1970年台後半に日本には大量のアライグマがペット用に輸入されたそうです。しかしながら、やがては持て余した無責任な飼い主たちがペットを山に離して外来種のアライグマが日本に住み着くようになり、害獣指定されたそうです。

現在では輸入禁止。また見つけても飼ってはいけません。

「あらいぐまラスカル」って罪深いアニメですね。アニメ最後にはペットとして人に慣れたラスカルを人里離れた湖の向こうへ捨てに行って物語が終わりますが、アライグマを飼えなくなった人たちはアニメに習ったのでしょうか?

生態系のバランスを乱す行為はいけません。

動物園のアライグマ
日本国内で家庭での飼育は禁止ですよ

アライグマの愛らしい姿は最寄りの動物園で鑑賞するか、北米大陸に出向いて会いにゆくのが良さそうです。

ラスカルは世界名作劇場屈指の人気キャラとして、今もなお数々のラスカル柄入りのアイテムとして、またはぬいぐるみやフィギュアなどのオモチャとして売られています。

公式サイトまであります。

いつの日にはラスカル、日本のスヌーピーになれるでしょうか。

初期四部作からアメデオにパトラッシュにバロンにラスカル!
五作目の赤毛のアンにはペットはいませんでした。

ラスカルはやはり素晴らしいアニメです。

大人が見ると誰もが通り過ぎる過ぎ去った子供時代を懐かしめて、子供が見ればラスカルの可愛らしさに魅了されることでしょう。

わたしは11歳のスターリングの生き方にいろいろ感銘を受けました。

でも原作のスターリングはアニメのような気弱で品行方正な少年ではありません。そして愛らしいラスカルも、現実世界ではもっと手に負えない飼育困難な野生動物なのです。

アニメはリアリズムからは程遠いものだけれども、だからこそ理想的な美しい世界として、我々は心から愛おしく思えるのですね。

一生に一度はラスカル、見てみるといいですよ。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。