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アニメになった児童文学から見えてくる世界<23>: 子供たちは悲劇を知るべきなのか

アニメ世界名作劇場の記念すべき第一作となった、イギリスのウィーダ原作「フランダースの犬」の前回に続く投稿です。

動物愛護主義者ウィーダは、フランダース地方の文化として知られる荷台を引く労働犬問題を小説において取り上げました。

現在のベルギーのフランダース地方では、日本では大変に有名なこの小説の存在は、ほとんど知られてはいません。

日本の捕鯨・食鯨を批判する児童文学が存在すれば、日本では人気が出ないでしょうし、愛玩動物の犬を食用とする文化を野蛮と呼ぶ小説があれば、食犬を好む韓国や中国南部では読まれることはほとんどないでしょう。

フランダース地方の労働犬の歴史的存在は、馬車同様に自動車の普及でほとんど忘れ去られてしまったようですが、「フランダースの犬」にはもう一つの大きな問題があります。

無垢の魂、絵画の天稟を持つ主人公ネロの死です。

日本ほどではないにしても、「フランダースの犬」は英語圏でそれなりの知名度を持ち、日本でアニメになる1975年以前にも四度も映像化されています。

しかしながら、どの映像作品も原作の悲劇的な最後を改変してハッピーエンドで物語を終わらせます。コンクールで賞をもらって立派な芸術家になるのです。

原作通りにクリスマスの真冬の大聖堂で、低体温症と極度の疲労のために死んだネロとパトラッシュの昇天で作品を終わらせた二次創作は、日本のアニメが世界初でした。

ここに、子供には悲劇を伝えない西洋文化と諸行無常を子供にも伝えようとする日本文化との大きな違いを、わたしは見出すのです。

日本で最も悲しい物語の一つとして知られるアニメ

「フランダースの犬」は英語圏でもあまり知られていないのにもかかわらず、日本ではアニメファンでなくとも、ほとんど知らない人のいない名作とされる「フランダースの犬」。

名作漫画「のだめカンタービレ」に引用されても、ほとんどの人に理解されるほどに。知らないお話だと笑えない。

単行本第三巻Lesson 15より
貧乏を子供アニメを通じてしか理解できない超裕福な家庭出身の千秋真一(笑)

引用された1975年のアニメの主題歌「よあけのみち」

LALALA LALALA
ZINGEN (ズィンゲン) ZINGEN (ズィンゲン)
KLEINE (グレイヌ) VLINDERS (フリンデルス)
LALALA LALALA
ZINGEN VLINDERS 
LALA
LALALA LALALA
ZINGEN ZINGEN 
KLEINE VLINDERS 
LALALA LALALA
ZINGEN VLINDERS LALA

ミルクいろのよあけ
みえてくる まっすぐなみち
わすれないよ このみちを
パトラッシュとあるいた
そらにつづくみちを

こむぎばたけ なみうち
かぜにひかる かざぐるま
わすれないよ このみちを
パトラッシュとあるいた
とおいとおいみちを

リンゴばたけのむこうで
かわいいアロアが よんでる
わすれないよ このみちを
パトラッシュとあるいた
ながいながいみちを

この歌の冒頭ははフランダース方言のオランダ語 (フラマン語) で歌われるのです
zingenはドイツ語のSingen, つまり英語のSing
Kleine Vlindersは小さな蝶々
「ラララ、ラララ、歌え歌え、小さな蝶々、ラララ、ラララ」が和訳
カタカナ表記ではVの音はない方が歌いやすい
弱拍の部分なのでVlでL音を強調した方が歌らしく歌えます
フリンダース」という子音連結は訓練しないと日本人には無理です

アントワープのネロとパトラッシュの銅像

物語の舞台となった、ルーベンスの「キリスト昇降」と「聖母マリア昇天」の絵画を所有するアントワープの大聖堂の前には、「フランダースの犬」の銅像が現在では立てられています。

それも1975年にアニメ放映されてバブル前の金余りだった日本人の観光客が「フランダースの犬」の舞台に数多く訪れたことで地元で話題となったからだそうです。

1980年ごろ、日本人観光客が教会関係者に作品のことを尋ねても、彼らは皆目ウィーダの作品のことを全く知らないで、日本人に逆に作品の存在を教えられる始末。

もう都市伝説のように広く知られたエピソードかもしれませんが、実話なのです。

ウィーダの作品を読んで感動するベルギー人はほとんどいないはずです。

あの物語に書かれた動物虐待の実態が事実だと記憶しているフランダース人は、もはや誰もいないのに、そういうことをいまだに伝える物語だからです。

フランダース人には労働犬は生活に欠かせない存在でした。過去の話といえども、彼らの歴史で大きな役割を果たした労働犬批判は受け入れられるはずもありません。

そして、あまりにもむごい周囲の人たちのネロへの扱い。フランダース人にも良い人と悪い人がいたことでしょう。でもこの小説での主要登場人物のフランダース人たちは一様に非常に薄情なのです。

「貧しいこと」だけが罪かもしれない、無辜である未成年ネロの悲劇は本当に悲惨なもの。

千秋の想像にあるように、アンデルセンの「マッチ売りの少女」そっくり。マッチ売りの少女もクリスマスイヴに凍え死んだのでした。

原作において、ネロの遺体を抱いて泣きすさぶコゼツ旦那やアロアの姿は、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」で若い二人が死んだ後に悔いるキャピュレットとモンタギューの親たちに酷似します。

私にはいろいろデジャヴュな「フランダースの犬」なのですが、まずは原作の最後の部分を紹介して、この英語原作をハッピーエンドに変えてしまう、英語世界の人たちのメンタリティーを考察してみます。

そして子供に悲劇を伝える世界名作劇場の制作姿勢について。

ネロとパトラッシュの死の場面(原作より)

テレビアニメは忠実に原作に書かれた物語を伝えてくれますが、天国に天使に連れられて昇ってゆくネロとパトラッシュの場面でアニメは終わります。実は原作には続きがあります。

原作では次のように語られます。

アニメ同様にコンテストに落選して、帰り路にコゼツ旦那のなくした風車再建資金の2000フランの金貨のつまった金袋を雪の中でパトラッシュが見つけます。

そして金貨をそのままコゼツ家に届けると、空腹と疲労と老齢のために疲れ果てたパトラッシュをアロアに預けて、ネロは吹雪の夜道へと姿を消します。

やがてパトラッシュはネロを求めて吹雪く夜道に飛び出します。

何度もネロの痕跡を見失いながらも、ようやく最愛のご主人様のもとへとたどり着くのです。そして大聖堂にて、これまで見たくても見ることのできなかったルーベンスの二枚の絵を見ることができたネロは心から満ち足りるのでした。

On the morrow, by the chancel of the cathedral, the people of Antwerp found them both.  朝になると、大聖堂の礼拝の場の前で、アントワープの人たちはネロとパトラッシュを見つけました。 
They were both dead: 二人とも死んでいました。
the cold of the night had frozen into stillness alike the young life and the old. 夜の寒さは若い命と年老いた命を同じように、静寂の中へと凍らせてしまったのです。 
When the Christmas morning broke and the priests came to the temple, they saw them lying thus on the stones together. クリスマスの朝が訪れると、司祭たちがやってきて、石畳の上に横たわる二人を見つけたのでした。
Above the veils were drawn back from the great visions of Rubens, 
and the fresh rays of the sunrise touched the thorn-crowned head of the Christ. 彼らの頭上のヴェールのルーベンスの偉大な絵画は覆っていたヴェールは再び開かれて、さわやかな朝の光がキリストのいばらの冠を照らし出していました。

As the day grew on there came an old, hard-featured man who wept as women weep. 昼間になると、あるこわばったなりをした年配の男が女のように泣くのでした
"I was cruel to the lad," he muttered, "and now I would have made amends—yea, to the half of my substance— 「わたしはあの子に辛く当たった」と彼は低い声で呟き「これから償いをしようとしていたのに、ああ私の財産の半分を分け与えて
and he should have been to me as a son." 息子のようになるべきだったに
There came also, as the day grew apace, a painter who had fame in the world,  and who was liberal of hand and of spirit.  同じくして、絵の技術や精神に偏見を持たない世界的な名声を持つ画家がやってきて
"I seek one who should have had the prize yesterday had worth won," 「わたしは昨日賞をもらうべきだった本当の人物を探している」
he said to the people— と人々に語るのでした
"a boy of rare promise and genius.  「稀なる可能性を持った天才だ」 
An old wood-cutter on a fallen tree at eventide that was all his theme. 「夕暮れに切り株に腰かけている年取った木こりが絵の主題だった(アニメではジェハンおじいさんが絵に描かれましたが、原作ではミシェルさんなのです)」
 But there was greatness for the future in it.  この作品の未来には素晴らしいものがある
I would fain find him, and take him with me and teach him Art." 彼をどうしても見つけたい、そして私のもとで芸術を教えてやりたい」
And a little child with curling fair hair, sobbing bitterly as she clung to her father's arm, cried aloud,  そして激しく泣いている、美しい巻き毛の小さな子供が父親の手にしがみつきながら、大声で叫ぶのでした。
"Oh, Nello, come! We have all ready for thee. 「ああ、ネロ、戻ってきて。みんなはあなたのために何もかも用意したのよ
The Christ-child's hands are full of gifts, クリスマスのためにイエス様の格好をした子供の手には贈り物がいっぱいで、
and the old piper will play for us;  笛吹のおじいさんたちは私たちのために笛をふいてくれるのよ
and the mother says thou shalt stay by the hearth and burn nuts with us all the Noël week long yes, even to the Feast of the Kings! そしてママはね、クリスマス週間中、その先の王様のお祭りまでずっと暖炉の傍に一緒にいて、焼き胡桃を食べてもいいって言ったのよ
And Patrasche will be so happy! そしてパトラッシュもとっても幸せになるのよ
Oh, Nello, wake and come!" ああ、ネロ、起き上がって戻ってきて!」
But the young pale face, turned upward to the light of the great Rubens with a smile upon its mouth, answered them all, "It is too late." でも上方にある偉大なるルーベンスを口元に微笑みを浮かべながら見上げる幼い彼女の青ざめた顔はすべてを物語るのでした。「もう手遅れなの」。
For the sweet, sonorous bells went ringing through the frost, and the sunlight shone upon the plains of snow, and the populace trooped gay and glad through the streets, but Nello and Patrasche no more asked charity at their hands. All they needed now Antwerp gave unbidden. 心地よく朗々と響き渡る鐘の音は寒さを貫いて、陽光は雪景色の大地に輝くのでした。教会の人たちは楽しそうに嬉しそうに道路へと駆け出してゆきました。でもネロとパトラッシュは、クリスマスのお菓子をその手に受け取りに行くこともないのです。
Death had been more pitiful to them than longer life would have been. 死は永らえて生きることよりも慈悲深いものだったのです。
It had taken the one in the loyalty of love, and the other in the innocence of faith, from a world which for love has no recompense and for faith no fulfilment. 死は、愛が報われず、信仰も満たされぬことのない世界から、忠実なる愛に生きるひとり、そして信仰の純真さに生きていたもうひとりから奪い取ったのです。
All their lives they had been together, and in their deaths they were not divided: ふたりはいつでも一緒でした。そして死もふたりを分かつことはなかったのです。
for when they were found the arms of the boy were folded too closely around the dog to be severed without violence, and the people of their little village, contrite and ashamed, implored a special grace for them, and, making them one grave, laid them to rest there side by side—forever! ふたりが見つかった時、少年の腕は犬をしっかりと抱きしめていて無理やりでなければ、二人を引き離せないほどでした。小さな村の人たちは、罪を深く悔いて恥じ入り、ふたりのために特別な恵みを神様に哀願しました。二人のために一つの墓を作り、横に並べて彼らを眠らせたのでした、永遠に一緒であるように!

遺体の前で大泣きするコゼツ旦那の姿が印象的です。

アニメ版は、原作に教会に駆けつけた「女のように泣く」コゼツ旦那と、ネロとパトラッシュの遺体にすがって泣くアロアの姿を描かずに、昇天した聖母マリアのように天使たちに連れられて天へと昇ってゆくネロとパトラッシュの姿で物語を終わらせました。

「フランダースの犬」の悲劇は罪なき二人が死んでゆくまで本当の悲劇とは何かを知らない、コゼツ旦那のような我々の姿でもあるのです。

子供の死

未成年である主人公が最後に死んでしまう子供の物語はそう多くはありません。

子供とはこれからの人生を生きてゆく存在で、どんなに愛されようと子供の死は人生を未完成のままで終えたと言わざるを得ないからです。

大人が戦争で百人死んでも知らない人たちにならば普通の「悲しいニュース」でしかないのですが、子供の場合は、たった一人の死でも「悲劇」として報道されます。

いたいけない子供の死はいかなる場合にも悲劇です。

わたしはこの物語を今回改めて読んでみて、小説のアロアと同じ年齢の女の子を持つ父親として、コゼツに感情移入しました。アロアは十二歳で、ネロは十五歳でした。

絵ばかり描いているネロを「怠け者」と見下す彼を、わたしは非難できるでしょうか。

ネロの誠意をようやく悟り、悔いるコゼツ

今でこそ、絵を描く仕事にはいろんな可能性があることがわかりますが、それは社会全体が豊かになって、そういう生計の口も普通にありえるようになったからです。

でもネロやコゼツの時代には一般的ではないものでした。

貧しい農村に寝たきりの祖父と倹しく暮らしていて、ミルク配達という薄給の仕事に甘んじていて、余暇には絵を描く15歳の少年(青年ともいえるのかも)。

わたしも一人娘にネロのように貧しい家庭の少年との交際を快く許すのでしょうか。

貧しい社会は貧しい心の人間もたくさん生み出します。

パトラッシュをこき使っていた酒飲みの金物屋も、原作では名前すら与えられていない、ネロの家の管理人 (アニメではハンスと呼ばれます) もそういう部類の人間です。

心の貧しきものは幸いなり。神の国は彼らのものである。
つまり、日本的に解釈すると、浄土真宗のいうところの「悪人正機」。
悪人ほど、心の貧しいものほど、天国に行けるほどの善人になれるだろうという言葉、
悔い改めるならば。

子供のためのアニメという欧米社会の常識

さて、ここからが難しい問題なのですが、欧米社会では子供の見て良い番組とそうでないと番組には明確に線引きされているのです

ディズニー作品を見れば分かるように、子供作品はあくまで子供のために教育的に作られていることが多い。教訓を盛り込んだりすることが今でも子供の物語に期待されていたりする。

悪人は悪人らしく描かれて、善人は善人として描かれるのです。

非常にステレオタイプな人間観を刷り込んでいるようで、わたしは昔から好みませんが、それが西洋文化。

日本アニメの魅力は、そうした大人が定めた基準の押し付けが少ないことなのでは、と個人的には思っています。

もちろんいろいろ例外はありますが、日本アニメにはある種のリアリズムがあり、世界名作劇場が典型。

悪人にも良いところがあり、善人でも完全無欠には表現されない。人間は混沌なのだというのが日本的な人物像のあり方ですが、西洋文化では二元論的に、これが悪だと決定されると、徹底的に悪として描かれる。

原作では名前の与えられていない、ネロを執拗にいじめるテレビアニメ版のハンス。
最終話では、改心して吹雪の中、ネロの名を涙ながらに呼ぶのです

子供には希望を与えるべきで、人生の悲哀や現実を思わせる表現は極力避けられる。

だからネロは日本のアニメでは死んでゆくのだけれども、欧米版では、ネロはハッピーエンドを迎えないといけないのです。

ビタースウィートなエンディングは好まれないし、また社会的に求められていない。

ここに日本アニメが世界中で大人にさえ好まれている理由があるように思えます。

わたしは仕事柄、たくさんの教養ある大学関係者と知り合いですが、シェイクスピアや温暖化問題や人権問題に深い関心を抱いている彼らでも、子供文学とティーンの文学、大人の文学と、精神年齢の違いに応じて、読むべき本や映画を厳格に分けてしまいます。

わたしは戦後の昭和日本の小学校の修学旅行で広島に連れてゆかれ、原爆記念博物館で大変なショックを受けました。アメリカ人は小学生の自分達の子供に枯葉剤などから生じたベトナム戦争の戦争被害などを教えはしないでしょう。

ここに「フランダースの犬」の解釈の違いの原点があるように思えます。

「フランダースの犬」の翌年の1976年、世界名作劇場第二作目は、世界的に日本アニメの巨匠として知られることになる、高畑勲・宮崎駿コンビが手がけた「母を訪ねて三千里」でした。

基本的に宮崎アニメは子供相手の作品にでも、悲惨な世界の描写を遠慮することなく書き込んでいます。それが宮崎監督の基本方針。

ディズニーのようなお子様ランチな作品とは一線を隠しているのです。

「魔女の宅急便」に描かれた先輩魔女の暮らすムーラン・ルージュの街。
13歳の女の子は下手すると、あんな娼婦の街で働かされる羽目にもなるというメッセージ
ディズニーではこういうのはNGでしょう。
アニメに描かれた赤い風車

宮崎アニメには、こういう大人が子供には隠したい世界への引用が随所に書き込まれていて、隠し絵探しのように探し出すことを楽しめたりもしますが、欧米のアニメには、こうした大人の世界の現実には書き込まれません。

「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」など、海外で評価されたアニメでは、そうした深みが認められているようです。

世界名作劇場が世界中で鑑賞されて評価されますが、こういう表現を忌避する欧米人は当然ながらたくさんいます。また文化的にそぐわない部分はテレビ放送ではカットなどもされるのです。

「風の谷のナウシカ」の太古の伝承の部分など、異教的な部分は英語版ではバッサリとカットされていて、あまりに残念だったことを覚えています。

ああ文化圏の違い!

そんな絶対に埋めることのできそうにない文化的な子供のための作品観の違いを端的に体感できるのが「フランダースの犬」なのです。

劇場版「フランダースの犬」(1997)

1997年に制作された2時間の劇場版リメイク「フランダースの犬」は、一年間の放映のための余剰のエピソードをカットしてコンパクトにまとまた大変に優れた映画です。

テレビアニメが付け足したオリジナルなお話がほどよくカットされていて、非常に原作そのままに近い仕上がりです。

死んだネロの魂を弔うために修道女になった成人したアロアの回想という形で物語られてゆきます。

下の動画は英語吹き替えですが、YouTubeで無料で視聴できるようなので、昔見たからには懐かしく、今回初めて見る方には、昭和版では作れなかった美しい最新式映像を通じて、ネロとパトラッシュの悲劇を鑑賞できます。

最後には、原作に登場しない大人になったネロの親友たちも登場して、ネロの悲劇は子供の頃の美しい思い出へと昇華されているのです。

ジョルジュ、アロア、そしてポウル、

お時間があれば、今一度、鑑賞してみてください。

コゼツ旦那の立場から、大人の視点から、ネロを考えてみると違った世界がまた見えてきます。

「フランダースの犬」の英語

英語原作は言い回しが古風で読みにくいので、全ての方にお勧めできませんが、なかなか面白い英語に出会えたので紹介いたします。

  • "I should go to my grave quite content if I thought, Nello, that when thou growest a man thou couldst own this hut and the little plot of ground, and labor for thyself, and be called Baas by thy neighbors," said the old man Jehan many an hour from his bed.(「わしは満足して墓に入るだろう、ネロ、お前が大きくなって自分の家と小さな土地を持ち、働いて、隣人たちに旦那と呼ばれるようになるならば」と寝たきりのジェハンおじいさんは何度も口にしたのでした)。Baas Cojezとはコゼツ旦那。Baasはオランダ語(フラマン語)。本来は英語ではありませんが、大航海時代の大国オランダは、アフリカ大陸南端の喜望峰を長い間植民地化していました(1806年より英国領)。この言葉はいまでも南アフリカのアフリカーンス語として、アフリカでは黒人雇われ人が白人雇用者への呼称として使われます。おじいさんはネロが画家にではなく、旦那と呼ばれる立派な人になってほしかったのでした。

  • There were light and warmth and abundance everywhere, and the child would fain have made the dog a guest honored and feasted. (明かりと温かさと豊かさで部屋いっぱいでした。アロアはパトラッシュを最も大事なお客さんとして、もてなしてやりたかったのでした)。このFainという副詞はあまり見かけないですね。古風な言い回し。「喜んで」という意味。現代英語ならば Delightedly でしょうか。

  • "Didst thou dream that I should be faithless and forsake thee? I—a dog?" said that mute caress.(おまえは僕が思いやりなく見捨てるなんて夢にも思ったかい?僕が…犬のお前に… 何も語ることのない愛撫はそう語っているのでした)。古風な英語でいっぱいで、Thouが何度も小説中で使われるのですが、ネロは「おまえThou」と親しみを込めた二人称でパトラッシュを呼ぶのです。Youばかりの英語よりも深い表現です。Thou doest (You do) , Thou didst (You did), と変化します。 

最後に、アニメ最終回の最後に鳴り響いたシューベルトのアヴェ・マリアをどうぞ。アヴェ・マリアはキリストを産んだ聖母マリアを讃える歌。

ネロが最後に見た絵は、息を引き取ったキリストが十字架から下ろされる場面のルーベンスの、ずっと見てみたいと願い続けてきた絵画でした。

Suddenly through the darkness a great white radiance streamed through the vastness of the aisles;  突然、暗闇の中、白い輝きが広々とした大聖堂の通路に流れ込みました
the moon, that was at her height, had broken through the clouds, 雲を破って、その高みに姿を現したのはお月さまでした。
the snow had ceased to fall,  雪は降ることを止めて 
the light reflected from the snow without was clear as the light of dawn. 光は雪に照り返り、朝日のようなのでした
It fell through the arches full upon the two pictures above, from which the boy on his entrance had flung back the veil: 入り口にいた少年はアーチのように光が降り注ぐ二枚の絵の上にかかっていたヴェールを引きはがしました
the Elevation and the Descent of the Cross were for one instant visible. 
十字架の昇降の絵が目に入りました 
Nello rose to his feet and stretched his arms to them; ネロは立ち上がり、腕を絵に向かって伸ばしました。
the tears of a passionate ecstasy glistened on the paleness of his face.  熱い恍惚の涙が青白い顔を伝ってきらめきました。 
"I have seen them at last!" he cried aloud. "O God, it is enough!" 「やっと見ることができた」と大きな声で「神様、これで十分です」と叫んだのでした。
His limbs failed under him, and he sank upon his knees, still gazing upward at the majesty that he adored. 足はもはや彼を支えることはできず、膝から崩れ落ちましたが、それでも上に臨める愛してやまない偉大な絵画を見つめ続けるのでした
For a few brief moments the light illumined the divine visions that had been denied to him so long—light clear and sweet and strong as though it streamed from the throne of Heaven. 光が彼には長い間見ることを許さなかった神々しいルーベンスの絵画をほんの少しの間だけ照らし出したのです
Then suddenly it passed away: once more a great darkness covered the face of Christ. それから唐突に光は消えて果てて、再び漆黒の闇がキリストの顔を覆ってしまいました。
The arms of the boy drew close again the body of the dog. 少年の腕は犬の体を再び引き寄せました。
"We shall see His face—there," he murmured; "and He will not part us, I think."  「イエス様の御顔をすぐに拝めるのだよ、ほらあそこで。僕らを二度と引き離したりはしないよ、そう思うんだ」とネロは低く呟いたのでした。

死んだキリストは三日間死の眠りについて、そして蘇ります。

キリスト磔刑の像は、陰惨で絶望的な絵画に見えるのですが、描かれた物語のメッセージを読み取れるキリスト教徒には、キリストの死とは希望の象徴なのです。だから何百年もの間、偉大な画家たちに描かれ続けてきたのです。

ネロには理解できたはずです。

ルーベンスはそういうキリストの十字架昇降の絵の歴史的最大傑作の一つを描いた芸術家でした。

ネロの死は悲劇です。

でも寒さの中で息を引き取ったネロは、希望の象徴であるキリストの姿を瞼に浮かべながら心安らかに永遠の眠りについたはずです。

ネロは幸福な思いの中で天に召されてゆきました。

「フランダースの犬」とはそういう物語なのです。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。