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「お客様は神様です」の雑稿

東京でオリンピック、大阪で万博という高度成長時代の夢が、忘れられた卒業アルバムのようにやってくるとの事。
ことの良し悪しは別にしてこの2つのイベントで連想されるのが「三波春夫」先生ですね。そして「三波春夫」先生と言えば「お客様は神様です」の決め台詞。しかし、この台詞今一つサービス業者には評判が宜しく無かったりしました。「顧客の傍若無人な振る舞いを助長した言葉」として登録されてしまった訳です。そこで、今回は「いやいや」という視点から考えて見たいと思います。設定はカウンター席の寿司屋としましょうか、、

1.神様は命令したりしない。預言をするのだ

神様は人間に命令したりしません。人間は神様の奴隷ではないのです。神様はただ黙っています。聞こえる人だけに神の声は届くことになっていますが、それは預言です。決して命令ではありません。

お客様は注文をしますが、ああしろ、こうしろと言ってはいけないのです。神様だから。黙々と受け入れる、そして静かに席を去り不味ければ2度とこの店に現れません。神様であるお客様が黙々と食べる姿から人間である店主は「このままでは、この店は潰れる」という預言を聞く耳を持たなければなりません。これを聞いた人間である店主は、過ちを悔い改めなければなりません。

そして神様には「傍若無人な振る舞い」など認められていません。神様だから。しかし、間接的な「奇跡」は人間は願ったり、恐れたりしても良いかも知れません。
(口コミとも言いますね)

2.神様は祈りを受ける立場です

神様は祈られるものです。神様はお願いをしません。お願いができるのは、神様と話が出来る選ばれた人間のみ、お供え物と共にです。普通の人間はただ祈ることしか許されておりません。

店主は価格を決め、メニューを決め、神様に祈りを捧げます。「儲かりますように」と。神様は願いを叶えるとは言いません。捧げものを受け入れるかどうか結果だけで示します。

良く「旨かったよ」「素晴らしいよ」などと、店主を勝手におだてる方がいらっしゃいますが、これは基本的に神様としてマナー違反なのです。通い続けるか、黙って去るか。これが神様である客の本来の振る舞いなのです。

3.神様と人間には上下関係はない

神様と人間に上下関係や主従関係は有りません。ただ、隔絶した存在なのです。決して理解の叶わぬ交わらぬ存在です。神と交信できるのは、限られた選ばれた人間を通してです。選ばれた人間は尊敬され、隔絶され、別な意味で差別されます。

対等な安心できる関係は横に並びます。カウンターに並ぶ客同士は仲間です、友達になる資格があります。しかし、カウンターは顧客と店主を隔絶します。正面に向かい合う緊張関係です。時にお酒を受ける事もあるでしょう。しかしこれをお客(神様)から始めるのはいかがなものでしょう。人間である店主から貢ぐべきものではないでしょうか。

お会計をしてくれる方は「巫女さん」的なものかも知れません。お金という、神と顧客を繋ぐものを仲介する立場です。

良く、映画で飲み潰れた客に、暖簾を降ろし「飲みなおしましょうか」と女将はカウンターから、席の横に並び、神の席に立つのです。
この神と人間を繋ぐ役割は「女性的なもの」なのかも知れません。

4.まとめ

お客様はやはり神様です。それは、お客の言う事を何でも受け入れ奴隷のように振舞う「slave(奴隷)」と近い「service(サービス)」とは違う概念です。店主は、顧客を神聖なものとして精一杯自らの技量を賭して、願い、祈り、日々の糧を得るべきなのだろうという意味で、三波春夫先生の言葉は、含蓄に富んだ言葉として、見直されるべきだろうと私は思うのです。

ま、戯言ですけど。

少しトラブルがあって、旧アカウント消して新たに再出発。以前のアカウントフォローされていた方🙇。今度はゆっくりやります。