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再読:ナタリアギンズブルグ「ある家族の会話」

3つの観点で読了感を書いてみようと思います。


1.戦争の記憶が「物語」と熟すまで

2.俯瞰して描くこと

3.文学者の戦後の虚脱感-2人の人物像を通してー


1.戦争の記憶が「物語」と熟すまで

物語は、第二次世界大戦時にイタリアに住むユダヤ人の家族が生きる姿を、家族の会話を交えユーモアと悲哀を織り交ぜながら綴られる。

出版は1963年。著者ナタリアの夫・レオーネの死から20年の長い歳月が流れている。

ことばに表現できない哀しみを客観的な物語へと紡ぐまで、長い時間が必要だったのか。長い時を経て「記憶から物語へ、背中の重荷を変換」させていったとも思われる。

2.俯瞰して描くこと

この物語は、あえて「描かない」ことを選択する場面がある。読書会で挙がった観劇の記述「カツレツスルゾ」が,名前が呼ばれないシェイクスピアの著作であったように。

後半。戦争体験のうち,夫レオーネの獄死[p.203]は短すぎる表現に見受けられる。友人パヴァーゼへの追悼とはまた違う意思を,著者が提示しているかのように。描かないことで、触れたくない・書けないことがあるのだ,と。そうすることで、そっけないくらい無言の印象を読み手にもたらす。

ファシズムの時代、著者とその夫たち周辺の文学者は、ことばを大切に扱って描くことを自身に課した。「戦後、ふたたびことばが豊富に出回るようになり…(中略)…用語の境界線がぼやけ、大混乱が生じた。」[p.217~]

 とあるように,安直なことばの使い方への反抗心があったと考えられる。前半では、家族の他愛もない会話が繰り返されるシーンがあり、後半に向かうにつれ、だんだん違った色合いで物語は奏でられる。

3.文学者の戦後の虚脱感-2人の人物像を通してー
ことばを厳しく選んで書くことを課した著者が、書きたかった人物は2人いたようだ。次兄マリオと、知人がいない日を選んで自殺した友人パヴァーゼ。

文学を愛した2人は戦争で変容していった。内面を崩壊させていったものはなんだったか。寂寥感、虚脱感…自己を見失ったのか。生き抜く力を削がれた、人生を愛することから逃げるような人物として描かれる。

 次兄マリオは、皮肉の混じった厭世観を浮かべる。著者は、家族だけに分かる会話で育った兄が、戦後は、もう元に戻らない存在となったことを哀しみ、物語の中でニヒルに位置づけているように見える。

他方で、パヴァーゼのことを、「皮肉なものの見方をするにも関わらず、作品を客観化することができなかった」と指摘する。

ここが私にひっかかった。

 パヴァーゼと同じ志をもって出版社にいた著者にとって、

もしかしたら真逆の意味を持つのでは。

「なぜ死を選んだのか。多くの才能と前途を期待していたのに。」という行き場のない投げかけが混じるように映る。

 繊細な仲間へ。「完ぺきな人はいないんじゃないか。それらを含めて人を愛し、人生と文学を愛すること、小説を創ることが、生き抜いていくことなのかもしれない。その希求が客観化することになるのではないか。…もっと話したかった。」と尋ねたかったような。

初見での読み方が上澄みだったので,読み返しました。

これまでの私は,読めば至福だったな、と。

思考の流れを整理するためにも、書くほうにも少しずつ比重を移していけたらと願う。




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