“僕たちみんなの峰不二子”論
《国民的SEXシンボル》を問われれば、昭和生まれの日本男児らしく「あぁ...アレねぇ...」とか白々しく躊躇したフリをしながら、間違っても単刀直入にそんな大それたアルファベット3文字を口走ることなど憚られ、唸る芝居も打ちながら「Hmmm...峰不二子かなぁ...」と小声で答えるしかない。「峰不二子世代っすからね~…」とか視線を泳がせながら、自他を誤魔化す言い訳まで添えなければならない。僕よりオジさん世代も、平成世代でも、峰不二子ならばオバちゃんでもJKでも、その名を挙げられそうである。
“ルっパ〜ん♪”を誘なうあのデビルヴォイス...”ルっ…”半呼吸溜めて”パ〜〜ん...”と、長母音にボイ〜〜んと偽りの愛の限りを込めて、摩天楼の最高級マダムのごとく極めて上品にお高く、シャンゼリゼのショコラのごとく極めてエレガントに甘く、そして世を股に掛ける泥棒猫らしく極めて腹黒くしたたかに囁く、あの峰不二子の魔性の天声の虜だった。脳天に淫美な余韻を残して心地よく悩殺されながらも、なのに憎めないキュートさも孕んで、悪魔と天使の囁きが絶妙にブレンドされたような、不二子めのしたたかな甘言に騙されないほど、僕は強くない。
スネ夫を演じた肝付兼太さんが、僕の中のニヒルな男声を象徴していたのと双塔を成して、増山江威子さん演じた峰不二子こそ、セクシーな女声を象徴していた。亡くなって暫らく、国葬級のディープな喪失感に苛まれていた...
モンキーパンチは霊峰富士から、峰不二子と命名したと云う。富士山は単独峰なので、若干分かり辛いかもしれないが、例えば、アルプスの切り立つ連峰を想い浮かべれば、雲海に浮かび上がるその峰の際が、バスタブに横たわり、長脚をへの字にくねらせた不二子の美脚の如き、美しいフォルムを描いていることに気がつく。美味しそうなメレンゲを纏ったアルプスや富士の峰は、ひと際女性らしくお高く聳え、我々の目を釘付けにし、圧倒し、見降ろし、大いに癒し、ホットに心を奪って、クールにそっぽを向く。不二子のキャラ作りに込めたモンキーパンチの思いであろうか。
マリリン・モンローのような実在の《国民的あれシンボル》をなかなか容赦しない、狭小な島国ニッポンを象徴する国民的キャラクターだと、ずっと僕は、不二子を見つめてきた。日本独特の地味な国民性や閉鎖的な社会環境が、ひたすら生身の《あれシンボル》台頭を阻んで来た。峰不二子と云うアイコンは、マリリン同様にヒールな顔も必然合わせ持ちながら、時代を跨いで《国民的的あれシンボル》としても堂々とお茶の間のど真ん中で躍動し、老若男女問わず愛され続けてきた。未だ国内に、彼女に匹敵する大器が、僕の目には見当たらない。
昔、ハリウッドの奥地に暮らしていた時分、奇遇にもマリリン・モンロー(ノーマ・ジーン)が昔々、一瞬のJK時(1941-1942年)に通っていたヴァンナイズ高校で開講される公営夜学の英語教室(その名もアダルトスクール)に、暇な時だけ、キックボードを蹴って通っていた。そんな暇つぶしイングリッシュスクールの行き帰り、毒々しい我が主食・ハリボーやペプシを漁りに、毎度、ドラッグストアに寄り道する日々だった。ストアの広大なパーキングをボード蹴って横断していると、幌を上げたアメ車から、ひと際ゴージャスでまばゆいかもしれない御姐が、たとえ夜でも、皿田きのこちゃん(Dr.スランプ)顔負けのラグジャリーなグラサンに目隠ししたまま、颯爽と降臨して来たりしたものだ。そんなんが、うじゃうじゃあの一帯には生息していた。
彼女達からは稀に、カリフォルニアの夕陽に燦々と照らし出された己の美に陶酔する勘違いナルシシズムと、自分の眼鏡に適わない輩を虫けらの様に見くだす孤高な勘違いオーラと、狙った獲物をピンポイントで惹き寄せる武器の如くしたたかな、勘違いフェロモンが毒々しく発せられている場合もあった、気がする笑。みんなひっくるめて、僕は”フジコちゃん”とお呼びしていた。指とグミを咥えて彼女らを見上げ、勘違いされて見くだされ、雑念をコーラの泡で弾き飛ばし、毒を以て毒を制するような、ケバケバしい映画村界隈で暮らした西海岸の昔日も、今となっては懐かしい。。
記憶が確かなら、1996年頃、代官山に近い渋谷のスタジオだったと思うが、一度だけ増山江威子さんとお会いしたことがある。実際、僕は、かなり変な声の持ち主である。しかし、増山さんは真剣な表情で何度も「あなた、いい声ねぇ...」と仰る。実際、その数年後から、国内外の様々な業界で、バラエティに富んだ雑多な現場を渡り歩く中で、この奇妙な声に抗い「そのアニメ声なんとかならないの?」とかイチャモンをつけた偏屈なディレクターは、僅かに一人、日本人、その一言、一度キリしかなかった。概して自分のキャラは、ギャラに換金されてきた、と言ってもよい。世間知らずの日大生だった青二歳に、増山さんが何気なく掛けてくれた「いい声ね..」の呟きは、今なお、多様な仕事場へ僕の背中を押してくれる、魔法の呪文であり、暗示であり続けている。
一度キリ、と云えば、上品な不二子が一度だけ、銭形警部を「とっつぁん」呼ばわりしたことがあるそうだ。詳細は不明だが、もしも、一度でも、とっつぁん銭形が不二子とベッドインなど叶おうものならば、いざ事に及ぶ寸前にルパンに邪魔された挙句に、不二子に身ぐるみ剥がされ「とっつあん」呼ばわりされながら素っ裸で放置され、そんな悪夢のうたた寝から狼狽しながら目覚め、地団駄踏むのがオチであろう、などと大概のマニアが思うであろう。が、実はそれは、僕の様な凡人の想い描く凡々なシナリオであって、そんな不二子像を拝む凡人の儚い迷信であった。とっつあん銭形と不二子は一度キリだが、不二子自身のスピンオフ作品中、男女の関係を結んでしまっている※。ド素人が不意に、アントニオ猪木の延髄斬りを喰らったような、衝撃的な脳天杭打ちである。ぎょぇぇぇ!!!
何をヤっても盗っても嫌味なくかわいいから許される?そんなしたたかな愛嬌を纏う峰不二子の免罪符は、何マン回でも使用可能な万能IDなのだろうか?破天荒な自由さは、万人問わず、型に嵌った凡人の予想を爽快に裏切り続ける。だからこそ《国民的あれシンボル》が、遺産級のミステリアスなレジェンドとして、時代を跨ぎ、男性をも跨いで君臨し、その役割が艶々と務まって来たのかもしれない。ったくもう、峰不二子ってナニ者なの?霊峰不二子妖艶伝説ですな。それにしても、とっつぁんめ、畜生!笑
※《LUPIN the Third /峰不二子という女》第四話「歌に生き、恋に生き」
モンキー・パンチ自身も「次にどんな音が来るか分からないジャズの様に、敢えて予定調和を外したりする自由が好きで、最後のどんでん返しを読者に見透かされたら僕の負け」と【JAPAN Jazz】2011年10月号の中で語っているではないか。アドリブ効き過ぎて、ルパン一味が寿司詰めで逃走するキュートなポンコツ車みたいに、ブレーキ効かせるの大変っしょ?つーか、ブレーキ効いてないっしょ?サル知恵ワル知恵が詰まったジャズィーなストーリー展開のオチに、凡人の浅知恵は、痛快なモンキーパンチをお見舞いされるわけである。
浮名を流す事もまた、自身のプロモーションである事実を、したたかに証明して魅せたマリリン・モンローは、そのショッキングピンクな煌めきを煌々と放ちながら、金髪をなびかせて銀幕の彼方へと消えて逝った。暫時、彼女の亭主でもあったニューヨークヤンキースの色男・ジョー・ディマジオは自身の最期に「死んだら…マリリンのところに行ける…」と呟いたそうだ。ルパンも同様に、最期は、不二子への憧憬や未練をボソッと漏らしてから、死んで逝きそうではないか。ひょっとして、銭形のとっつぁんも?
なるべく”YES”と言おうとする欧米の最恵国と比較して、島国・日本は、なるべく”NO”と言ってしまう卑屈な風土が根付いてしまっている、と海外から帰国する度に感じてきた。もちろん、こう云う窮屈で蒸し暑い火山列島だからこそ、そのマグマの上でぐつぐつ煮詰められた濃厚なイマジネーションが産む逸品のアートは、ニッポンの誇りでもあるわけだが。モンキーパンチや宮崎駿が、物語の舞台を海外に描く時、もっとワールドワイドに世の隅々、古今東西にまで視界を開き、学び、考え、行動し、日本の良さも残しつつ、意固地にならずに新境地をもたらせ、と観る者、特に若輩に訴えたいはずだ。
もし、明日のニッポン社会に生きる幸福度や、実質賃金の水準を向上させたければ、がんじがらめに国民を黙殺して来た既得権益や、それに絡みつく規制を、まだまだ随分と撤廃させ、社会に渦巻く偏見を根こそぎ覆し、その”NO”と言ってきた比重を、幸せやお金を「もう少し欲しい...」分だけでも”YES”の方にシフトしなければならないはずだ。幻影の日本人らしさに自らを偽り、あるいは騙され、その曇った眼鏡を通してのみ国内外を眺め、他者と接しているような負の島国根性に固執するならば、いましばらく《失われた云十年...》と嘆く日々が続くに違いない。
その曇天続きの憂鬱な空が遂に晴れた日本晴れの好日、絶世のお色気美女が燦然と降臨し、遂にみんなの《国民的SEXシンボル》として愛される時代が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。時代はますます”NO"の比重に偏り、なおさら偏屈に窮屈に卑屈になって来ている感じさえ受けるからだ。そんな中、日本人の顔をした外国人、外国人の顔をした日本人が時代を席巻し、国内外から島国ニッポンを心地よく揺らし、ワサビの様な和風な刺激を列島に練り込んでいるのも事実だ。
ラグビー日本代表HCに復帰したエディー・ジョーンズ氏もまた、ニッポンにルーツを持つ64歳のオージーであるが、その刺激的な変化を歓迎した上で「日本人は、守備を固めることで安心感を得る傾向が強い」と国民性を分析している。なるほどね。その特性が、外から眺めた我々の素敵なポテンシャルであり、オリジナリティでもあるならば、マリリン・モンローやシャロン・ストーンの様な、生身の攻撃的な《あれシンボル》は、結局、近未来にもこの土壌に馴染まないのかもしれない。馴染まないのが、ニッポンの美なのかもしれない。
物欲と肉欲に超従順でありながら、名誉欲など一切持たぬ、見方次第では出しゃばらない大和撫子にさえ映る、架空のエロカワ悪女・峰不二子こそが、やっぱり日本独特の社会構造の中で、向かうところ敵無しの守備的な《あれシンボル》としてお茶の間に映える、のかもしれない。しかも、第二の峰不二子ならば、誕生しそうな気配がムンムンと漂っているではないか。その登場の時、それでも”NO”と言わないニッポン、の到来さえ待ち望みたい今日この頃であるが、果たして?
あとがき、
一度キリだったが、一期一会だった。世の中が狭い目で”NO”のレッテルを貼っている何かでも、実は”NO”ではないはずの何かを、はっきり”YES”と俯瞰出来る広い視野と、周りの反発を恐れず、それを”YES”と率直に言える気概を、増山江威子さんはお持ちだった、と追悼したい。そんな類稀にまっとうな増山さんだからこそ、アニメ神は、彼女にセクシーな大泥棒・峰不二子の全盛期を任せたのであろうし、その天声をちゃっかり拝借して、不二子めは泥棒の分際で《国民的SEXシンボル》にまで、果たして成り上がれたのだろう、と僕は信じている。
心より御冥福をお祈り致します。
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