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第44話・1965年 『1972年オリンピック実施の朗報』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

ビッグニュースが飛び込んできた。10月9日国際オリンピック委員会(IOC)が、ローマ(イタリア)での第63次総会で1972年の夏季オリンピック実施競技について協議、オリンピック憲章に定められているハンドボールなど全21競技を行なうと決めたのだ。規模拡張に反対する意見も根強かったが、採決の結果、競技の平等を説く勢いが優った。翌・1965年に決まる開催地には4都市が立候補している。ハンドボールは36年ぶりの復活、世界の愛好者の歓声と拍手が聞こえるようだった。

4月に全日本男子の中国遠征が実現する。中国からの申し入れは前年「1965年に招待、翌年に遠征」の内容。日本協会は中国が国際ハンドボール連盟(IHF)の加盟メンバーではなく、非加盟国との交流を禁止している規程に触れるとしてIHFに問い合わせ、遠征の承認を望んだ。

IHFは1月「交流を認め、中国にIHF加盟を働きかけてほしい」と前向きな連絡を日本協会に寄せた。

中国の実力は1960年に来日したルーマニア代表から伝えられており、同国や東ドイツが指導していることもわかった。

日本協会は全日本の編成に取りかかるが、候補選手のうち学生の主に9人が辞退し、危うく遠征が白紙に戻りそうになる。

前年、全日本総合選手権、新潟国体を制していた大崎電気選手を補充、ことなきを得たが、国際信義に反し、ほかのスポーツの日本・中国交流事業に影響しかねなかった。辞退の理由は学生の試験期にあたる、とされた。

中国代表との公式戦は14-26、16-22の2連敗、各地選抜との対戦も1勝4敗で終わり「中国強し」の印象を深める。中国はIHF加盟は慎重な姿勢を崩さなかった。

秋の第3回世界女子7人制選手権(西ドイツ)を前にチーム編成で再びもたつく。代表選手の派遣を依頼された複数の実業団が難色を示し、最終的にフルエントリー(16選手)を組めないまま13選手でチェコスロバキア(当時)との予選(2試合)に臨む。

日本協会は初の試みとしてホーム・アンド・アウェイを提案するが、チェコスロバキア協会は応ぜず、IHFも認めないため遠征となり2連敗。ヨーロッパ転戦のあと帰国の予定だったが、本大会出場を決めていたソ連が突然、西ベルリン市が会場の西ドイツ戦を拒み、参加を取りやめたため、IHFはオランダ、日本の順による繰り上げ出場を打診。オランダの辞退から日本に出場権が舞い込んだ。

あわただしく乗り込んだ本大会は1次リーグ3戦3敗、7・8位決定戦でポーランドを6-5で破り、世界選手権初勝利とともに7位となった。

2つのビッグシリーズの前に起きた代表候補選手の“辞退騒ぎ”は多くの愛好者・ファンに「不自然さ」を感じさせることにもなる。女子の場合は実業団チームを持つ企業の「経営判断」による不参加とされていた。

ある地方協会のベテラン役員は「重要案件を理事長に一任する日本協会の体質に学生界や実業団界から疑問の声が上がっている」と語った。

また、この年、全日本学生選手権に待望の女子の部が発足した。

第45回は9月6日公開です。


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