第49話・1970年 『内外で揺れる「ミュンヘン」』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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ミュンヘン・オリンピックへつながる第7回世界男子室内選手権は2月フランスに16ヵ国が参加して開かれ、日本は“1点”が届かず惜しくもこの場での宿願達成は成らなかった。
日本は1次リーグB組(4ヵ国)でチェコスロバキアに9-19で敗れたが、続く優勝候補・ユーゴスラビア戦を17-17(前半8-10)の引き分けに持ち込む。前年のヨーロッパ長期合宿の成果を示せたが、勝利は奪えず。このあとアメリカに勝ちユーゴスラビアと1勝1分1敗で並ぶが総得失点差で大きなリードを許し、ミュンヘン行きとなる決勝トーナメント(ベスト8)進出を逃がした。ユーゴスラビア戦の“あと1点”が悔やまれることになる。
9~12位決定リーグではアイスランド、フランスを破ったが、9位をかけたソ連に12-28で押し切られ10位に終わる。この一戦は重要だった。ベスト8に開催国枠で出場権を確保している西ドイツが入り、9位にもチケットが渡される公算が高かった。
この大会前、国際オリンピック委員会(IOC)はオリンピックのボールゲームは8ヵ国で行なうとの方針を示した。国際ハンドボール連盟(IHF)は「すべてのボールゲームの国際連盟が激しく反対している。採用の可能性は少ない」とした。
それよりも微妙なのは日本オリンピック委員会(JOC)による「選手団縮小説」だ。理由は財政上とされ、ボールゲームの参加は世界選手権での実績優先との意向も聞こえた。
IHFが「予選」について詳細を決めたのは9月の第13回総会(スペイン)だ。理事会案の「大陸予選方式」に対しヨーロッパの一部の国が“世界1区”の予選大会案を主張して譲らず、翌日の採決(投票)へともつれた。
結果は世界選手権上位8ヵ国を除く投票で理事会案が圧倒的多数で支持され、IHFはただちに「71年中にアジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ各大陸で予選、アジアは日本、韓国、イスラエルがエントリーしている」と公表した。この時点でアジアのIHFメンバーはほかにヨルダン、レバノン、シリアだった。
日本協会は10月、アジア予選の日本開催を決めたが、韓国も意向を示し、イスラエルは3ヵ国リーグをホーム&アウェイでと望んだ(イスラエルは1968年から代表チームはアジア、クラブチームはヨーロッパ所属の変則的な扱いを受けていた)。交渉の難航が予想されて年を越す。
全日本男子の主力選手、近森克彦(芝浦工業大学-大崎電気)が秋のシーズン前、単身での交渉を実らせ西ドイツ全国リーグ(ブンデスリーガ)の強豪「ハンブルガーSV」に加わる勇気ある行動を取り、話題となった。近森は地元の電力会社で働きながら1軍メンバー入り、全国リーグ(1970-71シーズン)にも出場し、一戦ごとにたくましさを増した。日本人の「ヨーロッパトップリーガー第1号」である。
日本体育大学が開発を進めていた新ルールによる空間攻撃は「スカイプレー」と名づけられ、同大監督・北川勇喜が講師となった5月のNHK教育テレビ(現・Eテレ)の「テレビスポーツ教室」で紹介され一気に広まった。
成功した時の華やかさは、これまでのハンドボールにはない魅力を引き出した。
第50回は9月11日公開です。
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