第65話・1986年 『東京女子体育大学、日本リーグ勢倒し女王に』
「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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年末の第38回全日本総合選手権(現・日本選手権)で、東京女子体育大学が1回戦から決勝までの4試合すべて日本リーグ勢との顔合わせを制して、大学チームとして初となる優勝を飾る大旋風を巻き起こした。
全日本学生、東日本学生選手権、関東学生リーグ春・秋と学生界のビッグタイトルを独占し注目されてはいたが、これほどの快進撃を見せるとは思われていなかった。
準決勝、決勝の会場(東京・青山学院記念館=ハンドボールでは初使用)はOGや女子高生など女性ファンが詰めかけ、これまでにない雰囲気となった。実力あるメンバーに元・韓国代表選手2人が留学生として加わり、日本リーグチームに引けをとらぬ攻撃力を備えたのが勝因。
9月、2回目となるアジア大会(男子のみ)がソウルで行なわれイラン、香港が顔を見せ、日本、韓国、中国、クウェートとの6ヵ国リーグが組まれた。日本は韓国、中国に突き放され最終日クウェートと3位をかけて争う苦しい展開で、23-22と辛くもメダルは手にしたが“危機感”は募る一方となる。
秋になってソウル・オリンピック女子の参加チーム選抜方式をめぐって国際ハンドボール連盟(IHF)が開催国枠で出場の韓国を同時にアジア大陸代表とする案を進めていることがわかり、日本協会は緊急会議を開いてIHFに抗議文を送った。結果的にアジア大陸代表枠は確保される。
この問題の一方でレフェリー部会の慎重論を超えてIHFが検討中のルール(「バルセロナ・ルール」と呼ばれる4項目テスト)を施行間近と断じて新シーズン(1987年)からの採用と決めたが「急ぎすぎ」となり、1989年、元の「国際ルール」へ戻した。
第66回は9月27日公開です。
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