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第30話・1951年 『11人制の前途に不安の情報』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

日本オリンピック委員会(JOC)の国際オリンピック委員会(IOC)への復帰が5月のIOC総会(オーストリア・ウィーン)で正式に決まった。
 
ハンドボール界の視線も「世界」へ向けられる。
 
国際ハンドボール連盟(IHF)創立時に会計担当理事を務めていたヴォルフ・リーベルグ(スウェーデン)が11月中旬に来日するスウェーデンの有力サッカークラブ役員として同行することがわかり、日本協会・関東学生連盟共催で歓迎試合と世界情勢をテーマにした講演会の開催を決める。
 
講演会はセンセーショナルだった。リーベルグは日本で室内(7人制)がまったく行なわれていないと聞いて驚き、「明日からでもプレーを」と呼びかけ、話の随所で「戸外(11人制)の将来性は不安だ」「サッカーの勢いに対抗していくのは難しい」などと述べた。受講した人たちはすぐに理解できるものでなかった。
 
IHFも戸惑っていた。11人制の退潮を感じながらも、室内(7人制)の世界選手権(男子)は1954年にようやく16年ぶりの第2回大会を開く見通しがたったのに対し、11人制の世界選手権(同)は来年(1952年)に戦後2回目・通算3回目が行なわれ、1955年の開催も内定と“順調”だったのだ。
 
1952年のヘルシンキ(フィンランド)夏季オリンピックでは正式競技の採用は見送られたが、男子11人制での公開競技として実施が決まっていたのも安易に将来を定めることを許さなかった。

第31回は8月23日公開です。


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