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第60話・1981年 『名古屋オリンピックの夢散る』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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日本ハンドボール協会が3月11日付で財団法人となった。スポーツ文化の担い手としていっそうの公共的、社会的責任を背負うことになる。任意団体としての活動は1938年2月から43年にわたった。

財団化を記念して念願の国際大会の定期開催を実現、5月に「ジャパンカップ」と名づけてモスクワ・オリンピック男子優勝の東ドイツと中国を招いた。全日本がA・Bチームを編成してリーグ戦を名古屋、大阪、東京で行ない、東ドイツが3戦全勝で優勝。第2戦で全日本Aが若手主体のBに2点差で敗れてしまった。

大会後半に中国女子が来日、実業団単独チームと4戦、立石電機(現・オムロン、熊本)が引き分けている。

9月東京での第10回世界男子選手権(1982年2月、西ドイツ)のアジアB地区(極東ゾーン)予選は日本が中国を18-17、韓国を29-24で振り切り代表となるが、両国の進境は軽視を許せぬものがあった。A地区(中東ゾーン)の勝者はクウェート。

忍び寄る苦境をはね返す新たな強化策へ最大の力になると期待されたのは、9月30日、バーデンバーデン(西ドイツ)で行なわれる国際オリンピック委員会(IOC)第85次総会における、1988年夏季オリンピック開催地投票による「名古屋の勝利」だ。

最終的に残った候補地は名古屋市とソウル(韓国)の2都市(名古屋開催の場合の会場予定地は、名古屋市総合体育館と三重県鈴鹿市体育館または同・四日市中央緑地公園体育館)。

前日まで国内マスコミは「名古屋優勢」を伝え、日本オリンピック委員会(JOC)周辺も勝算を弾いていた。

日本時間午後10時30分に始まったIOC委員79人の投票の結果はソウル52、名古屋27の大差となった。IOC内に「アジアで1回開いている日本より初めての韓国を」との空気が強かった、韓国あげてのロビー外交の成果、といった“敗因”が報道された。

モスクワ・オリンピック不参加に続いての「名古屋オリンピック」の霧散。連続パンチは日本ハンドボール界にこのあと予想以上のダメージを与えることになる。

愛好者の手作りをきっかけに始まったクラブの全国大会(第56話・1977年の項参照)が8月「第1回全国クラブ選手権」として静岡・御殿場市に男子20、女子12クラブが参加して行なわれた。見事な開花だった。

第61回は9月22日公開です。


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