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第56話・1977年 『初のアジアチャンピオン』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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岐阜県協会の「GIFU Cup」(全国女子クラブ)、静岡県協会の「全国クラブ静岡大会」(男女)。トップエリアの2協会が相次いで愛好者の大基盤「クラブ」の全国大会を開いた。

岐阜は岐阜市や大垣市で市民リーグ(「水曜リーグ」)が活発に行なわれ、静岡は以前から高校OB、OGによるクラブの大会が盛んで、1970年に県クラブ連盟が結成されている。

極めて自然にクラブの輪を全国規模にとの声が聞かれるようになり、両県で期せずして企画が進んだとされる。

「クラブ」の目標は多様だ。

現役・OB(OG)混成の大学系は別格として、男子では1955年の全日本総合選手権を制した西日本日体OB(福岡)、つねに国体で優勝をめざした桜丘会(愛知、桜台高校OB)、このころでは日本リーグに参戦している大阪イーグルスなど、トップレベルの競技力を追うチームもあれば、試合が練習、メンバーもその日にならなければ定まらずハンドボールへの愛着がすべてというチームもある。この混然さが「クラブ」を組織するうえで最大の難題、しかも後者のタイプが圧倒的に多い。

その状況の中で両大会は船出した。「GIFU Cup」の初大会(1976年12月)は2府4県から10クラブと来日中の台湾女子・台中紡織が特別参加、7月の「静岡大会」には男子は1都16県22、女子は1府4県6クラブが集まる。「クラブ」の情熱がなみなみならぬものであることを示した。両大会は1980年まで5年(回)続けられ、1981年から日本協会による「全国クラブ選手権」へと発展する。

市民愛好者パワーが生んだ全国大会、日本ハンドボールの歩みに特異な跡を刻す。岐阜・静岡両県協会の熱意が賞される。

3月、アジア・ハンドボール連盟(AHF)による初行事、アジア男子選手権がクウェート(屋外球技場)に9ヵ国が参加して行なわれた。このうち4ヵ国が国際ハンドボール連盟(IHF)にまだ加盟しておらず、IHFは難色を示したが、加盟を条件に承認した経緯があった。

日本はヨーロッパへ単独遠征中の湧永薬品(広島、当時、現・湧永製薬)勢を除く編成で臨み、1次リーグでサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、クウェートの中東勢を抑え、準決勝で中国を26−21、決勝で韓国を24−14と下して初のアジアチャンピオンに輝いた。

第9回世界男子選手権(1978年1月、デンマーク)アジア予選は10月台湾での開催と決まり、日本オリンピック委員会(JOC)は前年同様の判断(第55話参照)で日本の参加(台湾遠征)を認めた。

国内マスコミの報道では、今回の措置には中国側から抗議があったとされる。予選には日本、台湾のほかサウジアラビアが参加、韓国は欠場。日本は2回総当たりを全勝、本大会へ駒を進めた。IHFは男女世界選手権にBグループと参加国をヨーロッパに限定したCグループの新設を決めた。

夏過ぎ、名古屋市が1988年の夏季オリンピック招致に興味を持っていると伝わる。

第57回は9月18日公開です。


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