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第68話・1989年 『男子代表候補を公募の試み』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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男子代表候補選手の選抜に「一般公募」した有能選手を加える試みが行なわれ、2月の合宿に実業団の若手、大学生、高校生26人が応募した。
 
3年後のバルセロナ・オリンピックに向かっての強化策を練る中、ソウル・オリンピックで上位入賞をめざしながら11位に終わった一因に「精神力の弱さがあった」反省が強く出され、新しい策を採ったと日本協会は説明した。5月の国際試合を前に20人が発表されたが、このうち「公募」に応じた選手の中から何人が選ばれたかは明かされなかった。
 
7年前のニューデリー・アジア大会(2位)以降、オリンピックこそ2回の出場を果たし期待に応えたが成績は伸びず、一方でアジアを勝ち抜く厳しさが強まってきていた。「公募」はトップゾーン全体へ奮起を促すメッセージでもあった。8月中国での第5回アジア選手権は2段階の予選ラウンドを順調に勝ち進んだあと、3強による決勝リーグは韓国に敗れ、クウェートからの1勝で2位、2大会ぶりの世界選手権出場(1990年・チェコスロバキア)を決めた。
 
同時に行なわれた第2回アジア女子選手権は台湾が初めて中国での大会に参加、香港を交え「極東5ヵ国リーグ」が実現した。金メダルメンバーから顔ぶれの代わった韓国が2連覇、中国、日本と続いた。
 
韓国協会はソウル・オリンピックの成功と女子優勝を祝って国際オリンピック委員会(IOC)会長からカップが贈られ、「IOCプレジデントカップ」の名で国際大会の定期開催を決め、9月の初大会に日本はソ連、ハンガリーとともに招かれた。1991年の第10回世界女子選手権の韓国開催も決まり、日本は隣国の盛況をどう活かすか、男子とは異なった強化視点が求められることになる。
 
国内では日本オリンピック委員会(JOC)が8月7日、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の専門委員会から財団法人として独立する大きな動きがあった。
 
モスクワ・オリンピックの参加を巡って(第59話参照)日本政府の強い意向を日本体育協会が受け入れて「不参加」となった事態は、JOC委員の中でくすぶり続け、前年秋ごろから「独立論」が一気に噴き出た。「日本ハンドボール協会」もJOCへの加盟を異議なく承認している。
 
JOCの課題は「財政」で事業の新路線は必至だ。加盟団体も当然、その風の中に立つ。
 
事業収入の主軸は国際大会だが、招くべきヨーロッパの代表チームは自国協会の看板であり、さらに有力クラブの“プロ化”によって日程が長くなるアジア遠征が難しくなるのは避けられない。それは新時代の協会運営を左右する問題であった。日本協会の意識は高いとは思えなかった。
 
11月9日、東西ベルリン(ドイツ)を分断していた「壁」が、市民パワーによって崩された。東ヨーロッパの革新の風が一気に吹き込む。国際スポーツ界へ与える影響は極めて大きい——。

第69回は9月30日公開です。


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