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やわらかでやさしい世界

 2019年が明けてから、他人からの言葉やふるまいに傷つけられることが立てつづけに起こった。そのどれもが察するに「悪気なく」向けられたものであったため、本人たちに直接怒ることができず、感情を飲み込んでくやし涙を流すばかりであった。こういう時、相手はきっと「いいことをした(言った)」とスッキリしたツラをしていやがるんだろうな。私にとっては余計なお節介なのに。心底むかつく話だ(お言葉がすぎるわよ、スミスさん)。

 このように落ち込んだ時、私は信頼のおける友達に話を聞いてもらう。くやしかったよ、と。でも相手に悪気がないのもわかってるんだよ。それでも私は傷ついたんだよ、と。友人たちは真剣に向き合ってくれるし、受け止めてくれる。時には自分の気づかなかった感情も言葉にして教えてくれるし、私が見つけられなかった側面を探し当ててくれることもある。本当にすてきな友達である。

 昨日も話を聞いてもらっている中でいろんな言葉をかけてもらったけれど、中でも心に残ったのが「やわらかでやさしい世界の中で生きよう」だった。そしてその世界は、自分でつくれるんだよ、とも。なんでも、彼女が数年前から取り組んできたことなのだと言う。

 人には価値観というものがあり、ゆずれるもの、ゆずれないものはそれぞれ違う。親子であっても、友人であっても、恋人であってもだ。自分の「確固たる部分」が他人の力で侵害されたり、ねじ伏せられそうになったりした時、我々にはそれを守る権利がある。相手と距離を取る、怒る、だれかに間に挟まってもらうなどして。たとえその相手と「価値観が合っていた時」があって、好感や信頼、恩や感謝を感じていてもそういう時はもう過去は関係ない。自分で自分を守り、なるべく心地の良い環境の中で生きられるようにしていくこと。それに尽力することは決して責められるべきことではないのだ。

 それにしても、こうやって友人と話していると、「私も同じように、だれかを包み込むような言葉をかけられているだろうか」といつも考えてしまう。言葉は時に刃になり、だれかの心の中のやわらかい部分をえぐってしまうことだってあるから。せっかく身近に、やわらかくやさしい言葉を知っている人がいるのだから、私もそれを吸収して周りに伝えていけたらと思う。

#日記 #言葉

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