名前を知らない顔見知り

 「火事です、火事です」
 物々しい火災報知器の警報音と男性のアナウンスが響き渡る。やっと帰宅して一息ついて、さあ部屋着に着替えよう、と思った頃だったのにな。音の遠さからして今度は近隣のマンションのようだが、万が一を思って部屋の扉を抜ける。さっき脱いだ靴を履き直して。すると、階段の踊り場から外を見ていたお隣さんと目が合った。「ここのマンションではないみたいなんですけど……。向かい? 隣かな?」などと話しかけてくる。「また誤報やといいんですけどねぇ。ずっと鳴ってるとこわいですね」。彼女の隣まで歩を進めながら、私も答える。音の出所を一緒に探したが、見えない。
 「また鳴ってますね。念のため出てきちゃいました」。後ろから別の声がした。今度は反対側のお隣さんが部屋から出てきた。「今度はこのマンションじゃないみたいですよ。まぁ、近くやとは思うんですけど」と返すと、「よかったぁ」と安堵の表情を浮かべる。
 「とりあえずここは大丈夫そうなんで、部屋に戻りましょう」、「おやすみなさい」。私たちは自身の安全を確信すると、それぞれ同じ大きさ、色、形のドアを開け、別れた。

 数分後、消防車のサイレンの音が聞こえた。報知器を感知してやってきたのだろう。でもこのマンションじゃないから大丈夫、と私はベッドの上に寝転がって本を読んでいた。消防士さんも大変だなぁ、などと思いながら、弛緩しきって。

 カンカン! コンコンコン!

 小説の世界へ入り込みかけたところで乱暴に現実に引き戻された。突然の大きな音に心臓が跳ね上がる。部屋の鉄製の扉が強く叩かれた音だった。急いで出てみると、先ほどのお隣さんふたりがそこにいた。
「報知器鳴ってるの、隣のマンションみたいです。しかもこないだのとは比べものにならへんくらい、消防車が来てて。一旦、下に降りませんか」
「え、まじっすか、ちょっと準備してすぐ出ます!」
 慌てていたので、自分でも驚くくらい馴れ馴れしい言葉が飛び出した。「まじっすか」って、ないよなぁ、と、焦っている割に冷静な自分のツッコミが入る。

 結局は今回も誤報で、消防士からそのことが告げられたとき、私たちは顔を見合わせ、「なぁんや、よかった」と口々に言った。安心しきってエレベーターで戻り、ドアの前で「今度こそほんまに、おやすみなさい」と苦笑いし合った。

 そう、報知器の知らせは、今回が初めてではない。2ヶ月ほど前に、私たちの住むマンションのそれがけたたましく鳴ったことがあった(誤報だった)。恐る恐る部屋から出たもののフロアで動けずにいたら、お隣さんたちもドアからそっと出てきたのだった。
「この音って、このマンションから鳴ってますよね?」
「ほんまに火事なんですかね?」
「とりあえず、避難しましょうか」
 引っ越してきて1年半近く経つのに、初めて姿を見た人たちと言葉を交わす。とても不思議な気持ちだった。大阪市の単身用のマンション。いくら東京と比べてちいさな街でも、ご近所付き合いが生まれないほどにはやはり都会の物件なのだな。その時も、妙に冷静な自分がそう思ったのを思い出した。

 1度そんなことがあったから、2度目の今回はお互い妙に、親しみと結束を感じた。だからか、ドアを叩いて危険(結局誤報だったが)を知らせてもくれたのだろう。そのことにあたたかさすら覚えた。名前こそ知らないけれど、もう立派な顔見知りだ。都会のマンションで、こんな物語が生まれるなんて、思ってもみなかったのにな。人生と人生は、ひょんなことから出会うものらしい。3度目の報知器がもし鳴ったら、それはお互いの名前を知る時なのかもしれない。

最後まで読んでくれて、ありがとうございます!