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「しあわせ」を考える #幸せをテーマに書いてみよう

「しあわせ考」、導入。

「しあわせ」について、最近よく考えている。
多様性の時代がやってきたにも関わらず、なぜかまだ「しあわせ」の定義って固定概念が強い気がしていて、なにかと友人たちとも話題になる。

アラサーともなるとよく出てくるのは以下のようなことだ。
「親戚から『早く結婚してしあわせになってほしいわ』って言われてんけどさ〜。私、たしかに独身やん? でも好きな仕事できてるし、趣味に時間割けてるし、めっちゃ健康やし、結構しあわせやねん。『結婚してない=ふしあわせ』みたいに思われんの心外やわ〜」

あ〜。あるある。
言った相手はたぶんなにも考えずに言ってるけど、こちらとしてはもやもやするやつね〜。

百歩譲って、「結婚して、もっともっとしあわせになってほしいわ」ならわかる。しかし、私は性格がひん曲が、いや、慎重派なので思ってしまうのだ。「結婚生活も時が経てばいろいろ問題が出てくる可能性だってあるのに、どうして盲目的に『結婚する=しあわせ』だと言えてしまうのだろう?」と。結婚はゴールじゃない。

※ ひとつ断っておくと、私は両親という「はちゃめちゃに仲の良い夫婦」を間近で見て育ってきている。子どもが独立してからもふたりでディスニーランドとか行ってる。人生超たのしそうでいいなと思います。良い伴侶に出会えた奇跡に乾杯!

私は、いまの仕事はあまり好きではないけれど、彼氏もいないけれど、でも音楽や映画やそのほか好きなものがたくさんあって、それに触れることができて、応援したい推しもいて。

しあわせかふしあわせか? と問われれば、結構しあわせなのである。高校生頃までの人生の方が非常に窮屈で退屈で、それに比べて大人ってなんて自由なんだろうと思える。

でも、時々不安に襲われたり、他人に嫉妬してしまうときがあるのだ。
身近な友人に恋人ができたと聞いたとき。知り合いが結婚したと聞いたとき。仕事で成功したとか、私が外れたライブのチケットが当選したとか(笑)、そういうことを聞くと、思うのだ。

いいなぁ〜〜〜。

そして、黒い感情が現れる。

ずるい〜〜〜。
悔しいな〜〜〜。
なんで〜〜〜。

ブラックスミスの降臨である。
相手がうれしそうにしていると、本当は自分もうれしいはずなのに。よろこびたいはずなのに。私は私でしあわせなはずなのに。やばい、と思う。これが蓄積してしまうと人にやさしくなれないからだ。

そのとき私は、「しあわせの棚卸し」のようなことをする。一歩立ち止まって考える。「そのうらやましさ、妬ましさ、本当に感じる必要があるものなの?」と。

「しあわせ」ってなんだっけ?

じゃあどうすれば「しあわせ」を感じられるのだろう。
「しあわせ」って、おそらく以下の2つのバランスが程よく保たれている状態のことなんじゃないかと思う。

① 自分の芝を青いと感じている状態
  理想の自分になる、夢を叶えるなど。
② 隣の芝を青いと感じていない状態
  他人をうらやんだり、嫉妬したりしない。
  ※ 相手を下に見ることではない

①はきっと、みんなやっているはずだ。完璧に①の状態になることはむずかしくても、少しずつ近づけるように努力しているんじゃないかな。

問題は②だ。なかなかむずかしいことが多いだろう。なにかの第一人者や圧倒的スターでもない限り、ゼロにはならない。ただ、ここでは後述する「しあわせの棚卸し」をうまくすることができると、自分の心地よさにつながってくると思う。

少し話はそれるが、「SNS疲れ」はおそらく、②ができないために起きているのではなかろうか。SNSの発達により、さまざまな人生を垣間見ることができる。それは貴重である一方、「見なくてもいい情報(=隣の芝を青いと感じてしまうきっかけ)が手に入ってしまう状態」でもあるはずだ。

①はやりつつ、②もやる。そのバランスが取れた先に、きっと「心地よい状態=しあわせ」がある、と私は考えている。

「しあわせの棚卸し」と「しあわせ軸」の決め方

では「しあわせの棚卸し」をどうするか。

たとえば、わかりやすいから例に出すけれど、身近な友人から「結婚した」と聞かされた場合。
もちろんめでたいが、「相手の芝が青く見えてしまってツライ!」と感じることがあるだろう。

でも本当に、感じる必要ってあるの?

そもそも私って結婚したいと思っているんだろうか?

結婚していないから、好きなことができているよね?
自炊をサボるのも、気分の向くまま旅行するのも、自分で決められるよね?

ヤバイ!って焦っているけれど、それってなにに対してなの?

友人がこれまでの頻度では遊んでくれなくなるから?
いまは若いから余裕なだけで、結婚できなかったら後悔するのではないか?
じゃあだれでもいいから相手を探して結婚する?
でも別にそれって「結婚したい」わけではなくて、漠然とした不安を解消したいだけだよね?

ってそれ、酸っぱいぶどうやないか!
というツッコミが入るかもしれない。でも、「なにをやらないか」という選択が必要な時代だと思う。だっていまは、際限なく「隣の芝は青く見えてしまう」時代だから。

すべてを追い求めるのは超人でもない限り不可能だ。
だから、自分にとって「どういう状態が最適」なのかという「しあわせ軸」を決めた上で選び取ることって大事なんじゃない? このことに、やっと最近気づけたのです。

そして、取捨選択をする際には気をつけるようにしている。「自分はきちんと納得できているか?」ということに。

どうせ自分にしかわからない「しあわせ軸」なのだから、自分が納得するまで突き詰めればいいのだ。その場で決められなければ数年かけてもいいし、保留にしてもいい。もし突き詰めたあとで「やっぱり違うんじゃないか?」となれば考え直してもいい。

他人のしあわせ軸に乗ってしまうのは楽だけれど、自分がその軸から振り落とされたとき、「話が違うじゃないか!」と恨みが出てきてしまう懸念がある。それを回避するためにも「自分のしあわせ軸」を決めておくのは自身のセーフティネットなると思うのだ。

終わりに

長くなってしまったけれど、要は自分自身にしっかりと「折り合いをつけよう」ということだ。一見かっこ悪いけれど、「折り合いをつけない方が疲弊する」と私は自分の人生27年間を通して悟ったのである。

さ、自分のしあわせを突き詰めていくぞ。

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先週更新したnoteを修正(主に大幅に削る作業)をして再掲しました(でも2500文字くらいある…)。どうせなら企画に乗りたい! と、今回もあきらとさんにお世話になりました。ありがとうございます^^


最後まで読んでくれて、ありがとうございます!